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バトンを渡す

この歳になると、年賀状だけのやり取りで十年以上顔を見ていないという人が何人もいる。高校時代の友人や幼馴染など古くからの知り合いが殆どだが、中には結婚してから知り合った人もチラホラいる。
元居た楽団の元団長、Fさんはその一人だ。

この楽団の創団の経緯はちょっと変わっていた。
普通アマチュアの吹奏楽団というのは、「楽団やろうぜ」という気の合う愛好家が集まって結成されることが多い。だがこの楽団はそうではなかった。
地元の青年会議所のメンバーが、『この街に文化を』という志の元に資金を出し合って指導者を招聘し、練習場所を確保し、楽器を揃え、全てをお膳立てしてアマチュアの愛好家を募集したのである。半世紀近く前の話であるが、こういう創団の仕方をした楽団は、私は未だにあまり聞いたことがない。非常に珍しい、恵まれたケースだと思う。

普通の楽団が必ず直面しなければならない諸問題を端から全く心配しなくて良いこの楽団は、その事実が非常に恵まれたものであることを全く知らない人ばかりで構成されていた。従って演奏に対するモチベーションが低い、言い方は悪いが烏合の衆的な楽団であった。
この現実が徐々に分かってくるにつけ、私の中に今起こっている運営上の諸問題はここに端を発しているのではないか、という思いが浮かんだ。

しかし入団して年数の浅い私が知っているのは、この楽団の長い歴史のほんの『一瞬』でしかない。まとまりのない団ではあったが、皆がバラバラに好き勝手にやってきた訳ではなかろう、きっと運営に尽力した人が過去にはいた筈だ、話を聞いてみたいと思った。
そこで思い当たったのが古くから居る楽団員が必ずその名を口にする、Fさんだった。
私が入る頃には既に辞めておられたので、私はこの人を全く知らなかった。ただ、皆が口々に懐かしそうに話すので、どんな人なんだろうかと思っていた。

楽団の三十周年記念演奏会を開催する時、私は定期演奏会の実行委員長に当たっていた。
三十年と言えばかなり長い年月である。どんな歴史があったのだろう。きっとその時々の運営の人間の、計り知れない苦労と目に見えない努力があったに違いないと思った。そしてそれを知らずして、やれ目出度い、三十周年だ、と言って色々企画をしてみたところで、この楽団の未来につながる演奏会にはならないと感じた。

そこでFさんの連絡先を知っている古い団員に連絡先を教えてもらい、以下のような内容のメールを送った。
「今回の定演実行委員長を仰せつかっている在間です。
三十周年を迎えるにあたり、この楽団にどんな歴史があったのか、あらためて楽団員に周知したい、と考えています。創団の経緯、地域の方々とのこと、運営上の苦労、などお差支えのない範囲でお聞かせいただければ幸いです。
また、今後の弊団に寄せるお言葉を頂ければ大変ありがたいです。
よろしくお願い申し上げます」

箇条書きでいくつかの項目にお返事貰えるかなあ、くらいの軽い感覚で送ったのだが、
「長くなるのでしっかり考えてから書いて送ります。少しお時間を下さい」
という返信を貰って驚いてしまった。
一週間ほどしてFさんから来たメールはかなりの長文だった。
資金繰りが悪化し、後援会の方々のところを回って寄付を集めて回った事。困った事があるといつも相談に乗ってくれた、青年会議所のメンバーのこと・・・。
そこには私の知らなかった様々な苦労と、地域の方々の温かい支援の数々が綴られていた。そしてお世話になった方々と当時の楽団員に対する感謝が溢れていた。
長い間にこの楽団を支えてくれた方々に、あらためて頭の下がる思いがした。
最後にFさんはこう書いていた。
『僕はこの楽団がドンドン変化していったらいいと思っています。どうか変化を楽しんでいって下さい。○○楽団をよろしくお願いしますね』
読んだ瞬間、リレーのバトンを渡されたような気になった。

実行委員のメンバーにこの文面を見せると皆大変感動し、『是非団員にもこのまま読んでもらいましょう』ということになった。Fさんに承諾を取り、団内報の形で配布した。
皆の心にどれくらい響いたかはわからない。

当時の後援会の方にも来て頂き、結果的に三十周年記念演奏会は大成功だった。
残念ながらFさんはこの日用事があり来れないとのことだったので、メールでお礼を兼ねて、盛況のうちに無事終演したことを報告した。
『お疲れ様でした。これからも○○楽団がどんな風に変化していくのか、楽しみにしています』
という返信を読んだ時、こういう人に支えられてこその楽団なのだな、と思った。

楽団を離れた今、この時のFさんの気持ちがよくわかる。
バトンを次に渡し、遠くからただ見守る。応援する心づもりがいつでも出来ている。そんな感じだ。子育てにも似ている気がする
今は私もFさん同様、楽団の更なる変化を静かに期待している一人である。