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ヴィーガン それ美味しい?

ヴィーガンという存在を知り、ヴィーガン食を楽しんでいる自分がいた。

そんな時にこの言葉に出会った。

「あなたがもし食をたしなむ者であるならば、あなたののどに刀をあてよ。」(箴言23)


ヴィーガン食がだんだんと広まり、大豆ミートを使ったハンバーガーやミートソースなどがある。

一度その味を覚えてしまうと、また食べたいという欲が湧いてくる。

これを続けていると、「感覚器官」に支配され、欲の奴隷になる。

ヴィーガンを知る前の生活を振り返ってみると、

粗食で満足していた。

ご飯、味噌汁、漬物、納豆、豆腐など

量もたくさん食べることなく、満足していた。


その生活がヴィーガンの発信を始めたり、ヴィーガンについてのドキュメンタリーを見て、変わってしまっていることに気づいた。


「ヴィーガンだったら、何食べてもいい。」

そんな思いになっていた。


ハンバーガーはずっと食べていなかったのに、
ヴィーガンのハンバーガーが世に出てきて、買って食べていることに気づいた。

大豆ミートでハンバーグを作っている自分がいることに気づいた。


「シンプルで質素な生活」をしていたはずなのに、

ヴィーガンという別の囚われに陥っていた。


人間には外を知覚するために五感が備えられている。
「視覚」「聴覚」「嗅覚」「味覚」「触覚」

全ての感覚より良いものを求め続ける。

もっと綺麗なものが見たい、
もっといい匂いを嗅ぎたい、
もっと美味しいものが食べたいなど

欲には際限がなく、また満たされないと「怒り」や「不満」が湧いてくる。

だからこそ、これら五感の特性を理解することが求められる。


最近のこの人間を振り返ってみると、

動物性を食べないけれど、自分の「食欲」を満たすために
ご飯を山盛り食べていたり、
貪る気持ちがあって食事をしていた。

「ヴィーガンやってるから何食べてもいいでしょ」みたいな気持ちへの変化があった。

欲望を満たす行為は一時的に快感であり、満たされる。

しかし、その欲にはキリがないのでもっともっとと欲しがる。そしてまた食べてしまう。

その繰り返し。
その欲から離れられない限り、永遠に続くループ。

その渦の中にいることがわかっていながら、欲を断つことがなかなかできなかった。

ここで自己嫌悪に陥りがちだが、気づいて否定せずに認めることで徐々に離れられるようになってくる。

日々瞑想を繰り返し、を読み、内観を重ねること様々な気づきがもたらさせる。

「本当に人生の目的を果たしたいのか?」
「このままでいいのか?欲に振り回され続けるのか?」
「この胃の不快感は何だ?」

そして、瞑想気づきから自然と欲が消えていく。

こうして一歩ずつ意識を向上させていく。


この経験から学んだことは、

「日常生活を意識的に丁寧に生きることを心がける。」

日常生活をゆっくりと、意識的に丁寧に生きることで「心を俯瞰する余裕」ができる。

今、食事に対してどんな思いを抱いているか。

一噛み、一噛みに意識を集中してみる。

そこには貪る心はなく、食事に対する感謝噛めることの有り難さを感じることができた。


でも、食に関してはヴィーガンというより粗食の意識をメインに生きていく。

今一度、食生活を見直す。

本当に3食、食べる必要があるのだろうか。

食は楽しむためにあるのだろうか。

何を食べるべきなのだろうか。

食べるために生きるのか、生きるために食べるのか。


人生において「食」はかなり大きな割合を占める。

そこに対して真剣に向き合うのは、めちゃくちゃ大事なことな気がしている。





感謝。