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私は自分の経験や知識を誰かに教えないし、伝えたいとも思わない

私はプライベートで、大学生と一緒にプロジェクトをやっている。プロジェクトを進めていく中で、学生の何気ない、素朴な質問に触れるたびに、「私の中にあったこの純粋な疑問はどこにいってしまったのだろう」と思ってしまう。

一見すると、無知ゆえに出てくる疑問にも見えてしまう。しかし、ふと立ち止まって考えると、おそらく何かしらの経験をする中で、私は自然と「これはこういうものだ」と飲み込んでしまうことを覚えてしまったのだなと気付く。自分が気づかないうちに持っている偏見や固定観念、前提条件がたくさんあることに気づいてゾッとする。

私が、「いや、これはこういうものだから」と頭ごなしに教えることをしてしまうと、彼らの中に私と同じフレームを作ってしまう。確かに、「これはこういうものだ」とみなして、次のステップに進むことは時に大切なことだ。しかし、私と同じフレームを再生産することに本質的な意味があるのか私にはわからない。自分の意見が偏っていて、再現性がないことも知っている。

いや、そもそも私は先生と生徒、教授と学生のような、誰かが教え、誰かが教わる関係が苦手なのだ。教える側の傲慢さを感じるし、知識のあるものが、知識のないもののために教授する、そんな関係は私の肌には合わない。

それよりも、一緒にプロジェクトをやって、過程を一緒に過ごすことで共に学んでいく方がずっといい。各自が自律的に判断し、自らの責任で行動し、周囲を巻き込み進んでいく。一方通行のやりとりではなく、双方向に情報を交換しながらフェアに物事を進めていきたい。互いに尊重し、対話を通して利害を調整しながら、プレッシャーを掛け合う方が、痺れるいい体験が生まれると思う。

だから、私は自分の経験や知識を誰かに教えないし、伝えたいとも思わない。あくまでやるのは、情報共有。誰かの楽しさ、喜び、達成感を一緒に作っていくことを選びたい。そんなことを思った朝

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