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時には、がんばって積み上げてきたものを捨てることも合理的な決断になりうる

とある事情で、この半年間くらい英語を話す機会に恵まれた。最後の方はほぼ毎日、英語を話していて、議論をしたり、相談をしたり、お願いをしたりしていた。多岐にわたるコミュニケーションを通じて、自分の英語力のなさを感じた。それに加えて、未熟な英語力であっても意味を媒介する言葉の受難さはすごいなと感心することもあった。

英語を話す時間は大変だが、私にとってはさほど苦ではない。うまいこと自分の考えが伝わっていない時はそれなりに大変さを感じることもあるが、それよりも英語でコミュニケーションをしている自分の方が好きだなぁと思うし、言語の特性からか少し発言がポジティブになりやすいというのも嬉しいことだった。

しかしその楽しい時間も終わって、今はもっぱら日本語ばかり話す生活をしている。「英語で話する機会があるといいなぁー」と思いながらも、特に何もやっていない。オンライン英会話(私も昔働いていたが)もやろうかと思ったが、別に雑談がしたいわけでも英語で何かを学びたいわけでもないし、むしろ英語でできる仕事を受けてしまうのが手っ取り早いのではとさえ思っている。

英語を話す機会がないと英語力が落ちていくのは事実。まず最初に口が動かなくなる。英語の方が日本語よりも口をダイナミックに使うし、日本語だけだと表情筋をあまり使わず、喉だけで話すことができてしまうから久しぶりに英語を話すと、頬が痛くなる時があるようにも感じる。

このまま英語を話すことがなくなると、多分あっという間に私は英語が話せなくなってしまうだろうなと、焦燥感を感じることがある。前々職時代から蓄積してきた英語の経験を失ってしまうのが怖いのだろう。英語を話せる自分に酔っているという側面もあるかも知れない。

でも、今私はこのまま英語力が落ちてしまってもいいかなと思うようにしている。使わないのだからしょうがないし、必要ないものに時間を割いても意味がないと考えるからだ。必要のない筋肉を鍛えても、肉体のバランスが悪くなってしまうのと似ている。今の私には不要。それが事実なのだろう。

しかし、こう思えるようになったのも、「もう一回英語ちゃんとやればすぐに英語話せる状態に戻せるだろう。その手段もわかっている」と思えているからだと思う。ダイエットに自力で成功した人が、リバウンドしても自分で体型を元に戻せるのと一緒かも知れない。ある種の自信を担保に、今のリスクをとっているとも考えられる。

英語がこのまま話せなくなってしまうのは少し寂しいし、積み上げてきたものがなくなってしまう損失も感じる。でも、必要ないものは必要ないのだ。いつ何時も何があってもいいように準備しておくプロフェッショナリズムは素晴らしいが、そんなことよりももっと重要なことに時間を割く方が人生を豊かにしてくれるなと私は思う。

だから私は英語を捨てて、次の何かをまた見つけようと思う。

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