陶芸教室でいつも会う気さくな女の子は、失敗さえも面白がっていつも笑う
私は2週間に1回アートスクールに通っている。コースは陶芸で、土をこねたりロクロを回したりしている。昨年の末ごろから通い始めたため、私はさして上手くもないのだが、自分の頭の中にあるイメージを具現化する作業が楽しくて仕方なく、最近では美術館で陶器をみた時に「どうやったらこう作れるか」をひたすらずっと考えるのにハマっている。削りの工程が今のところ一番好き。
ところで、同じ時間帯にいつもいる10歳ぐらいの女の子がいるのだが、仮に、Rちゃんとしよう。今回はその子の話を書こうと思う。Rちゃんは、センスがすごく、創作意欲も高い子で、前回会った時は学校の工作の授業で、他の人の3倍以上の創作物を作ったんだ〜と自慢をしていた。私は年齢でいえば10以上先輩だが、陶芸に関しては完全にRちゃんの方が先輩なのである。手際といい、物選びといい、ためらいのない手つきでガシガシと粘土を握り、すごく楽しそうに創作をしている姿をみているとなんとも勇気づけられる。私も頑張りたいなと思う。
私のような美術に苦手意識のある大人からすると、Rちゃんはきっと将来アーティストになるのかなぁ、美大にいくのかなぁと思えてならない。完全にお節介だが、Rちゃんの才能が他の誰かの手で潰されるようなことがないことを願ってやまない。Rちゃん自身が自分の選択で、自分の未来を諦めるならまだしも、状況や環境がそうさせることがないことを毎度会うたびに思う。屈託がなく、ものづくりを素直に楽しむその姿勢から、私が学ぶことはとても多い。
失敗を恐れ、誰かの評価を気にし、自分らしい発想ができなくなる時が私にはある。特に、創作活動をしている時には、「じゃあ、好きな物作ってください。決めていいですよ」と丸投げされることが多く、自分のやりたいことがすっと出てこない度に、いかに自分が他の誰かの要求を満たすことに最適化されているかをまざまざと感じさせられる。要求を満たすことは悪いことではないが、そればかりではだめだ。自分の感性以外が創作時に入ってくると、おのずと手が止まるし、最終的にはなんか見たことあるが、面白くはないものができてしまう。それでは、わざわざ自分で作っている意味がない。
Rちゃんは、自然にたくさんトライして、たくさん失敗して、その度にケラケラと笑って、その失敗自体を楽しんでいるようにさえ見える。当たり前のように見えるが、私たちが忘れてしまいがちな、忘れてしまっていることを教えてくれるような気がする。まだ会って数ヶ月しかたっていないのだけど、私はRちゃんを作り手として純粋に勝手に尊敬している。そして、勝手に将来にも期待している。夢と希望しかないなと思えてならない。それが陶芸でなくても、他のなんであっても。
そして、Rちゃんが社会で活躍する10年後には、私はもっと頭が凝り固まって、自分の思ったことが表現できない人間になっているかもしれない。それはとてもつまらない。じゃあ、今私ができることは何か。それは、やっぱり作り続けることしかないんだよなと改めて思った。
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この作品は、共創プロジェクト『不協和音』の作品です。このプロジェクトでは、エッセイを通してお互いの価値観や発見を共有し、認め合う活動をしています。プロジェクトについて興味を持ってくださった方は、以下の記事も合わせてご覧ください
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