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あなたにとっての信頼ってなんだろう? 〜私はインターネットの何を信頼していたのか〜

私は1995年生まれ。いわゆるデジタルネイティブ世代である。タイピングゲームができるパソコンの授業が、小学校の時はとても好きだった。卒業文集はWordで書いた。

昔、好きだった女の子が、私のタイピングを見て「ピアノ弾いてるみたいだね!」と笑顔で褒めてくれたのが忘れられない。タイピングほど、ピアノを早くは弾けないのだけれど。

インターネットを疑い、そして信じた

当時盛んに使われていた言葉に『情報リテラシー』というものがあった。今も使われているかもしれない。ネットリテラシーと言った方が馴染みがある人は多いだろう。

私が小中学生の頃、多くの人にとってインターネットは不確実で信用できず、怖いものであった。故に、リテラシーを高めて身の安全を守ろうとしていたのかもしれない。少なくとも私の親世代はそうであった。パソコンを触るたびに、「ウイルスには気をつけなさい」と何度言われたことか。

インターネット上の情報は、信用できる情報源のもののみを信じる。匿名の情報を信じたりせず、常に疑う態度でインターネットを使う。個人情報はインターネット上には明かさない。など多岐に渡っていた。どれも大切で、容易に忘れがちな視点である。

しかし、いつからか私は、インターネットに対してある一定の信頼を置くようになった。友だちのシェアや繋がり、友だちとのオンラインでのやりとり。それらを通して、インターネットの情報を信じるようになった。SNSが存在感を増し始めていた。今となっては、インターネットでまず情報を調べる。そして、その情報を真似してみる。最後には、自分の活動もインターネット上に公開するといった次第だ。

実際、昔に比べて有益な情報の量も増えた。技術も発展したため、スパムに引っかかる確率も下がったように感じる。多くの人が、YouTubeやInstagramで紹介された商品を購入するし、Twitterの何気ないツイートが影響力を持つようになった。

私はインターネットの何を信じていたのか

一旦立ち止まってみよう。
私はいったいどうしてインターネットを信頼していたのだろうか?
果たして、本当に私はインターネットを信じていたのだろうか?

おそらく違う。
私は友だちを信じていたのだ

友だちを友だちとして信頼しているからこそ、情報源としても信頼していた。友だちの情報が単に、インターネット上にあっただけである。

しかし、いつからかこの意識は薄れた。私は次第に、facebookやTwitterのタイムラインを信じるようになった。まるで昨日のドラマの感想を話すかのように、ネット上でバズっているコンテンツの話をした。

身近な人物に対する信頼が、無意識のうちに一般化されていたのかもしれない。周りに信頼できる人がたくさんいればいるほど、ほとんどの情報は正しいと錯覚しそうになる。

本物と偽物、私にとっての信頼とはなんだろう

最近は、フェイクニュースやAIによる自動生成が注目されている。どの技術も素晴らしい。本物と見紛うこともある。私自身もこの分野の技術者として技術発展の恩恵をかなり享受している。

一方で、発想次第では悪用も様々考えられる恐ろしさもある。本物と間違うレベルの偽物が生まれたときに、私たちは何をよりどころにしてその真偽を判断し、信頼するのだろうか。そして、本物と偽物とはなんだろうか。

今以上に、信頼というものが問われている時代はないと私は思う。天災や感染症、経済や政治的な不安、そして技術の進歩とルールのアンバランス。そんな不確実な状況下で私たちは生きている。だからこそ、どこかに安心を求めたくなるのが人間の本能かもしれない。

その時、
あなたは何を信頼するのだろう。
私は何を信頼するのだろう。
もう一度考えてみたい。

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