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不協和音をともに奏でてきて 〜これからへの宣誓〜

kuroda と昨年末に始めたこの不協和音という共創プロジェクト。のらりくらりと3ヶ月間、共に作ってきた作品は130本になった。

言うまでもなく、一人ではできなかったことであるし、やっていく中で『呼応』という、互いの作品に反応する形式のエッセイが自然に生まれてきた。この折に、この3ヶ月を振り返りを書いてみようと思う。

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プロジェクトのきっかけは、kuroda から聞かれた

なんで山本さんはエッセイ書くんですか?

と言う質問だった。色々と理由を説明した後に、kurodaは、こんなことを言った。

エッセイ書いてみたら何かわかるかもしれない

「じゃあ、一緒にやってみますか?その方が続くかもしれないですよ」と私は言った。これがプロジェクトの始まり。たったこれだけ。

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プロジェクトを計画して、実際に始めた12月は、とにかくエッセイを書くのが楽しくて、毎日毎日書いては公開し、書いては公開しを繰り返していた。毎日のように、「面白い、面白い」と kuroda に伝えては、不思議がられ、それでも「面白いから仕方ないじゃん」と開き直っていた。

年が明けて、自分の周囲が忙しくなってくると、なかなか筆をとって思いを認めると言うことが難しくなってきて、私は2月に小さなお休みをもらった。急に書けなくなって、かけないことさえもエッセイにしてしまえと思ったのが、『ねぇ、書けない時ってどうしたらいいの?』だった。

その時は、自分の感情や感覚に向き合うことができなくて、何も見えていなかったと思う。厳密にいえば、パターン認識ばかりして、観察したりありのままを見ることができなくなっていた。それゆえに気づきも発見もなく、エッセイが書けなくなっていたと思う。しばらく休憩したら治った。

エッセイを通して、自分の思考・視野を改めて客観視することができた。今まで私が書いてきたエッセイと、kuroda が書いてきたエッセイには、私たちそれぞれが大切にする価値観や、視点、感じ方が詰まっている。他人と自分が違う人間であるのはもちろんだが、もっといえば、昨日と今日の自分も違うのだ。「昨日はなんであんな攻撃的な物を書いたんだろう」と思うこともあれば、「あれれ、今日は昨日みたいにエモいのが書けないな」と不思議になることもある。でも、この違和感があるからこそ、面白いと私は思う。

今までの実験を踏まえて、この不協和音と言うプロジェクトを私はもっと昇華させてみたい。エッセイという軸で進んできたこの3ヶ月から、また新しい挑戦へとバトンを渡し繋げていきたい。不協和音とエッセイ、この2つの組み合わせは今後も残るが、また違う不協和音の奏で方を私たちはこれから見つけていく。でも、その話はまた次回。

kuroda ここまで一緒にやってきてくれてありがとう。おわり。

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