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変わっているところがあるから、その人だとわかること。変わっているところを、認めてしまうこと。

一緒に始めた共創プロジェクトの作品が100を超えたことを記念して、改めて kuroda について書いてみようと思う。昔の私はどうみていたか、そして今の私はどういう風に見ているか。何か変わることを求めているわけじゃなく、ただそこにある事実として。

kuroda と最初に話したのはいつだったか。もう数年も前のことではっきりとは覚えていないが、確か最初はライターという職業に私自身がすごく興味を持っていて、根掘り葉掘り文章の書き方について質問したような気がする。

私は職業ライターなんで、自分の書きたいものを書くのは得意じゃないんです。再現性高く文章を書くことの方がよっぽど得意

的なことを言われたことが、私の中でとても印象に残っている。

ああ、この人は文章書くことで自己表現する人ではなく、
書くということ自体が自己表現になる人なんだな

と私は感じた。自分の中で、ひとつ無意識に決めつけていた執筆という行為に対する前提が壊れたように思う。もちろん、良い意味で。端的に私は、いわゆる”変わっている”人が好きなのだが、その一番の理由は自分の前提を激しくぶっ壊してくれて、自分の自己を揺るがすような衝撃をくれるからだ。

私は自分自身を模範的、規範的なモラリストと思っている。私のようなタイプの弱点は、自分の認知フレームが自分の許容できる範囲を決めてしまうこと、フレームから外れたものに対する違和感がネガティブに働いてしまうことである。さらに生物の本能的に、安定を求めてしまい、何もしないと自分の認知フレームが徐々に小さくなっていて、いわゆる”小さい人間”になってしまう。自分のわかることにしか興味を持たない、面白くない大人になってしまう。しかも無意識のうちに。これが一番怖い。

確かに、kuroda は変わっている。が、その全てが kuroda の個性とリンクしていて、kuroda の変わっているポイントがあるから、私は kuroda を kuroda として同定できると思う。ライターの女性でもなく、働くママでもなく、kuroda は kuroda である。それ以外の何者でもない。

議論がしたくてランチに誘っても、メニューもお店も全部決めてくれないし、私が熱意を持って何かを話しても「わからないですけど、面白いならいいんじゃないですか?」とつっぱねられることもある。適当に返事してもいいシーンでも、いちいち言葉を選んで、言葉に悩んで、結局何も言語化してくれないところもある。それもすべて kuroda は言葉を大切にしていて、そのポリシーに反すると kuroda 自身が苦しむことを理解すれば、たやすく受け入れられるし、kuroda の内的な逡巡や反芻が kuroda の面白さだと思う。だから、 kuroda が出してくれる意見を信頼するし、意見を聞きたいと思うのである。

私は、今も昔も書いた記事を kuroda が面白いと思えばいいと思っている。私の記事を好きで読んでくれている読者の人を意識しないわけじゃないが、プロジェクトの大きなテーマは、私と kuroda がわかりあうことであることを忘れてはいけないと思っている。私たち二人が創作を楽しんでいないと、誰も楽しませることはきっとできないし、私たちが楽しんでいない世界観・ビジョンを私は持ち合わせていない。私たちが、わかりあいのために工夫したその軌跡がいつか誰かの役に立ったらうれしいと思う。

だから、この100記事という数字の先にも、創作を通してお互いの価値観を交換して、わかりあえていけると嬉しい。kuroda は kuroda、私は私とただ理解し、認めるだけでいい。それ以上は何も必要ない。

ここまで創作に付き合ってくれてありがとう。


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この作品は、共創プロジェクト『不協和音』の作品です。このプロジェクトでは、エッセイを通してお互いの価値観や発見を共有し、認め合う活動をしています。プロジェクトについて興味を持ってくださった方は、以下の記事も合わせてご覧ください


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