方言をしゃべれなくなって、故郷との繋がりを失ったような気がする

方言がしゃべれない。いや、正確にいえば、方言をしゃべれなくなった。中高生の時、なぜか突然、方言に嫌気がさして標準語を喋るようにしてから、方言の話し方を忘れてしまった。なんだったんだろう、あれは。若気の至り。

私に残るのは、西日本っぽいアクセントとイントネーションだけ。実家に帰って、家族と話していても私はずっと標準語で喋っている。方言がしゃべれないだけで、少しコミュニティから外れてしまったようなそんな寂しさを感じることもある。

もちろん、地元の方言は比較的わかるし、普通に会話もできる。親戚の家にいけば、コテコテの広島の方言を浴びせられるし、従兄弟に会いにいけば、お笑い芸人の「千鳥」の大吾さんと全く同じ方言を延々と聞かされる。方言は、標準語に比べてより生活に馴染んだ言語であると同時に、言葉自体に感情が乗っているよなと思う。どんなに厳しいことを言われても、方言の方が気持ちを受け取りやすい気がする。

一方で、方言がしゃべれなくなった僕にとって、地元は少し違和感のある土地になった。故郷であるから、街のことやご近所さんのこと、近所のわんちゃんなどいろんなことを知っているのに、『もう私の居場所はここにはないのだ』と、『私はここの生活者ではないのだ』と、まざまざと感じさせられる。

方言がしゃべれないからと言って、誰かが阻害をしてくるわけではない。でも、方言がしゃべれないせいで何か仲間に入りきれない、共通の言葉で話せないそんな違和感があるように思う。私たちは、言葉を介して人とつながると同時に、言葉によって人とつながることもあるのかもしれない。

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