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不協和音

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エンジニアとライターが始めた共同執筆プロジェクトです。エッセイを軸に、自分の感じたこと、考えたことを発信したり、同じテーマで互いに呼応したりする作品を作っています。
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2021年3月の記事一覧

私はほどほどに身長が高いのだけど...

リモートワークが増え、オンラインでいろんな人と打ち合わせをするようになってから、よく言われることが1つある。それは、 山本さんって意外に背が高いんですね!​ だ。だいたい177cm くらいの身長があり、周りの人たちの予想とは大きなギャップがあるらしい。結構驚かれる。もう慣れてしまった。 一般的な高身長の人と印象が真逆だからこのギャップが生まれているんだろうな、というのが私の理解だ。寡黙、落ち着いている、静か、穏やか、みたいなそういう感じだろうか。大体私とは逆で、そりゃあ

永遠に書けない「次の原稿」

この3月は忙しかった。原稿をいっぱい書いた。 会社の仕事として、対外向けの公式文書やコンテンツを計7本。 社内向けの細かい発信文書は、もはや数えきれない。 副業の原稿が5本。久しぶりにドクターのインタビューを書いたのが楽しかった。 エッセイは、公開・未公開含めて20本。 別のメディア向けの記事が2本。 些細なことだが、子どもが保育園に通っているので、連絡ノートには毎日そこそこがっつり日々の出来事や子どもの様子も書いている。 確かにわたしは、呼吸するように文章を書いているの

歴史は楽しい

一番最初に好きになった偉人は、榎本武揚だった。もしかしたら、知らない人もいるかもしれない。大政奉還後の戊辰戦争の五稜郭で、総裁をしていた人物だ。 確か、私が彼のことを知ったのは小学校6年生の時だったと思う。何より名前がかっこよくて惹かれた。土方歳三とか沖田総司が好きな子は周りにたくさんいたけど、榎本のことを知っている人はいなくて、悦に浸っていたような気もする。 歴史はずっと好きだ。好きになったきっかけは忘れもしない。小学6年生のの授業がきっかけ。歴史にまつわるクイズを毎回

うなされて起きた朝はどんより気分がより辛い

早起きは好きだが、体質的に得意じゃない。どうしても、ぼーっとしてしまうし、集中力のスイッチが入るのは9時以降になってしまうことが多い。 時々うなされて朝早く起きてしまうと、寝不足の辛さと朝のぼーっとさがダブルで押し寄せてきて、どうもどんよりした気分で朝が始まる。今日は晴れだったからいいものの、これが雨の日だったらどんより気分が増す。 朝の早起きはずっと苦手。小さい時からずっと。いつもエンジンがかかるのは9時くらいから。どんなに早く寝てもだ。 どうやら私は昼型もしくは、夜

春のひかりの中を散歩中

春のひかりは清潔だと思う。明るい。 透明度は冬の方が高い。でも、春の方が圧倒的にやわらかい。 ほっぺたや耳たぶ、まぶた、冬のつめたさが苦手な部位ほど、ひかりが春を帯びてきたことを喜んでいる。 土手を散歩するのは気分がいい。 季節の移ろいは、もっぱらひかりの変化で気づく。明度はもちろん、ひかりにも湿度や彩度があって、数値化はできないけれど、体感で十分だ。 皮膚になめらかなひかりの膜が張るような感覚。細胞がちょぼちょぼ春に呼応する。 のんびりしたりぼんやりしたりするのは得意

箸を両手で使えるようになって、左利きのもどかしさと、右利きの便利さを知った

私は、両方の手で箸を使える。横並びで食事をする時は、相手の利き手に合わせて座席を変わってあげられるし、左利きの人が食事の時にどんなことを考えているかがとてもよくわかるようになった。 きっかけは、中学生の時。学校のお昼の時間、教室の一番後ろで隣に誰もいない、ポツンと一人座るような席にいた私は、とても暇だった。別に、友達がいなかったわけではなく、なぜか校則が厳しくて自分の席から移動してお昼を食べられない学校だったのだ。 暇を持て余した私は、ある時から左手で箸を使うようになった

方言をしゃべれなくなって、故郷との繋がりを失ったような気がする

方言がしゃべれない。いや、正確にいえば、方言をしゃべれなくなった。中高生の時、なぜか突然、方言に嫌気がさして標準語を喋るようにしてから、方言の話し方を忘れてしまった。なんだったんだろう、あれは。若気の至り。 私に残るのは、西日本っぽいアクセントとイントネーションだけ。実家に帰って、家族と話していても私はずっと標準語で喋っている。方言がしゃべれないだけで、少しコミュニティから外れてしまったようなそんな寂しさを感じることもある。 もちろん、地元の方言は比較的わかるし、普通に会

不協和音をともに奏でてきて 〜これからへの宣誓〜

kuroda と昨年末に始めたこの不協和音という共創プロジェクト。のらりくらりと3ヶ月間、共に作ってきた作品は130本になった。 言うまでもなく、一人ではできなかったことであるし、やっていく中で『呼応』という、互いの作品に反応する形式のエッセイが自然に生まれてきた。この折に、この3ヶ月を振り返りを書いてみようと思う。 --- プロジェクトのきっかけは、kuroda から聞かれた なんで山本さんはエッセイ書くんですか? と言う質問だった。色々と理由を説明した後に、ku

ライターの良い失敗と良くない失敗

「失敗」の定義もむずかしい話だけどね。 たとえば、同じ原稿を7回書き直して提出したことがある。 電話口で2時間半、口頭でダメ出しされたこともあれば、余白に「は?意味不明」とだけ書かれた修正戻し原稿を見て、途方に暮れたこともあった。 どれもずいぶん昔の話だが、これらはある種の失敗談になるのだろうか。 個人的に、ライティングスキルの低さによる失敗は、ポジティブなものだと考えている。経験として次につなげられるし、そもそも人が書いて人が読むものである以上、初回取引の一発目から満

ランチは仕事味のケーキで

時々、ランチにケーキを食べる。デザートとしてではない。主食。コーヒーとケーキの“ランチ”である。 それは誰かと一緒のランチ。目的はその人と話すことで、食べることじゃない。普通の食事だと、食べることに意識と時間と労力を取られてしまう。 その点ケーキなら、質量が確実に少ない。対話にどれほど意識を寄せても、都度の一口が小さくても、相手の食べるペースから遅れずに済む。 本当はチョコレートケーキが好き。ショートケーキは苦手。モンブランは食べやすい。パイやタルトは食べにくい。大切なの

失敗することでしか、成功には近づいていけない

先日、知り合いとの会話の中で、失敗と失敗の捉え方を議論した。私は、失敗こそ私の全てであると思っている。その時話した内容に付け加えながら書いてみようと思う。 世の中には2つの失敗がある。想定通りの失敗と、想定外の失敗である。想定通りの失敗は、「失敗しそうかも」と予測できるもの、そしてリスク回避ができる失敗である。逆に、想定外は文字通り、「考えてもみなかった失敗」である。 失敗からしか学べない。でも、いつも失敗していいわけではない。失敗は成功と対比されるし、成功することの方が

郵便ポスト

今日の東京はひどい雨で、強風で、散々な天気だった。それでも用事があって出かけなければならず、ちょっとの距離だがバスに乗った。 信号待ちで停車中、路肩に立つ郵便ポストを見ていた。 ポストの形状に対し、投函口は少し引っ込んでいる。雨が止まないので、投函口の前を絶えず雨粒がしたたっていた。ポタポタというほど悠長な雨ではない。濡らさずに郵便物を投函するのは至難の業だろう。投函口を眼球だとしたら、まつ毛からびちゃびちゃに水滴がしたたっている状態。 ポストも「ワイパー欲しいなぁ」と思

オセロも花火もモーツァルトも全部、兄のせい

兄が中学生の時に、わたしが生まれた。 わたしの記憶では、大学生になってからの兄しか覚えていない。 オセロは、全面を埋めずとも相手を全滅させられる。小学生になってルールを覚えると、わたしは嬉々として兄に挑み、いつも全滅。わたしはめそめそし、兄は爆笑し、母は「手加減を知れ!」と言って怒った。 わたしは今でもオセロが嫌いだ。 手持ち花火も嫌い。 やはり小学生の頃、花火セットを買ってもらったわたしは、兄に「一緒にやろうよ」とお願いした。 自宅の前で、兄はとりあえず一本に火をつけて

「楽しくて、長い人生がいい!」って思うのはどうして?

楽しい時はあっという間に過ぎてしまう。楽しみにしていた旅行、好きなアニメのシリーズ、大好きな誰かとの時間。どれも気づけば、終わってしまう。 一方で、一向に過ぎてくれない時間もある。退屈な大学の講義、延々と続く単純作業、辛い説教の時間。どれも「早く過ぎてくれ!」と思っても、一向に時は前に進んでくれない(気がする) 自分の人生がどれくらいのスピードで進んでいるかを客観的に捉えてみると、自分が今この瞬間、どんな気持ちで生きているのかが少し見えてくるように感じる。楽しかったら時間