文壇ゴシップニュース 第2号 ヤクザに自分の糞を拾わされた武田泰淳、ツルゲーネフとドストエフスキーの対決

ヤクザに自分の糞を拾わされた武田泰淳

 終戦後、物資が払底した日本ではカストリという酒が流行った。サツマイモやコメを原料にした粗悪な密造酒で、味わうというよりかは酔っぱらうための酒だった。
 当時、有楽町駅の東側にカストリ横丁と呼ばれた一画があり、そこでは五、六人も入れば一杯になるバラックの飲み屋が軒を連ねていた。
 その中の一つにお喜代という店があり、作家連中のたむろする場所として知られていた。常連だったのは、立野信之、寺崎浩、中島健蔵、高見順、田村泰次郎、武田泰淳、梅崎春生、吉田健一、河上徹太郎など。
 ある時、お喜代の酒が原因で次のような珍事が起きた。

 或る日、まだ、その頃、戦闘帽に軍靴をはいた吉田健一氏が、眼鏡のツルのこわれたのを、ひもか何かでかがったままでかけた武田泰淳氏と二人で現れた。飲むうちに二人は、したたかに酔った。武田氏は突然便意をもよおした。当時、そこらあたりには、洗面所などというものはなかった。小便などは、みんな空地にたれながしであった。しかし大きい方になるとそうはいかない。
 武田氏は、ふらふらと横丁の中をあるきまわり、あまり人どおりのない路地をみつけてしゃがみこみ、尻をまくった。二つ三つ固形物をおとした瞬間、「おい」とすごみのある声で怒鳴られた。ゆらゆらと立上がると、アロハ姿の地廻りのアンチャンが、「ここは便所じゃねえ、持ってきな」と言った。泰淳はおもむろにズボンのバンドをしめ、またしゃがみ込むと、両手で自分の固形物を泥にまぶしてすくいあげた。「ほい、こっちへきな」と地廻りがうしろからこづいた。路地をぬけたところに空地があった。「ここへ穴をほってうめな」とアンチャンが言った。泰淳はいとも丁重に固形物を地面におろし、そのそばの泥を掘って埋めた。そのうしろに、戦闘帽の吉田健一氏が、へにゃへにゃ立っていた。(巌谷大四『戦後・日本文壇史』)

 武田泰淳が『司馬遷』を、「司馬遷は生き恥さらした男である」という書き出しで始めたのは有名だが(司馬遷は皇帝の逆鱗に触れ、宮刑に処されたことで性器を失っていた)、武田にとって糞を拾わされるのは生き恥に当たるのだろうか。
 武田泰淳のファンなら、泰淳が糞を埋めた場所を探す文学散歩をしてみてはいかがだろう。

参考文献
巌谷大四『戦後・日本文壇史』

ツルゲーネフとドストエフスキーの対決

 ジョージ・スタイナーに『トルストイかドストエフスキーか』という著作があるように、ドストエフスキーはトルストイと比較されてきたが、思想・性格の点でいうと正反対のポジションにいるのが、ツルゲーネフである。アンリ・トロワイヤは、『トゥルゲーネフ伝』の中で、ツルゲーネフを「教養があり、開化した、自由主義で懐疑的なヨーロッパ派」、ドストエフスキーを「完全なるロシア派で、猛烈な国家主義者、妄想家であった」と比較している。
 そんな二人が対決するような形となったのが1880年6月に行われたプーシキン記念像除幕式の時である。プーシキン記念像除幕式は、ロシア文学愛好者協会が主催し、モスクワで開催され、ドストエフスキーとツルゲーネフがそれぞれ演説を行うことになっていた(本来は5月に行うはずだったが、皇后の崩御で延期となった)。
 プーシキンが偉大な詩人の一人であることに反対する者はほとんどいなかったが、彼をどのようなポジションに置くかということについては議論が分かれていた。
 一方は、スラヴ派による、プーシキンを国民詩人、ロシア民族の精神の代弁者として見る立場で、プーシキンはロシア人だったからこそ、あのような傑作をものにできたのだと主張していた。
 もう一方は、西欧派による、プーシキンをヨーロッパ文学の中の一人として広く捉える見方で、評価は自ずと相対的なものとなり、プーシキン個人を絶対視しない。
 プーシキンは本人はというと、フランス文学に大きな影響を受けていたが、のちにそれを否定することになり、ナショナリスティックな傾向を強めていったが、フランス語を捨てることはなかった。つまり、スラヴ派にせよ、西欧派にせよ、自分の見たいものをプーシキンから引き出させるというわけである。プーシキンの伝記も書いているトロワイヤは、それらの矛盾を止揚したことに、プーシキン偉大さがあるという立場だ。
 プーシキン記念像除幕式にはトルストイも招かれていたが、ツルゲーネフの説得にも応じず、招待を辞退した。その理由をトロワイヤは「自尊心に凝り固まったこの『戦争と平和』の作者は、自分の方が誰か同業者に比べて騒がれ方や拍手喝采が少ないかもしれない、そういう危険を冒すのが厭だったのである」と書いている(『トゥルゲーネフ伝』)。こうして、プーシキン記念像除幕式は二人の一騎打ちとなった。
 式が近づくにつれ、スラヴ派と西洋派の対立は激化していった。さくらを用意したり、自分の仲間にだけ招待状を配るという工作が行われた。
 最初に演説をしたのは、ツルゲーネフの方だった。聴衆はプーシキンを称えるそれを期待していたが、ツルゲーネフのスピーチは慎重なものだった。

「プーシキンに対して、シェイクスピアやゲーテといった人々と同じ意味で、国民的詩人の称号を捧げることは果たしてできるでしょうか?」とトゥルゲーネフは言った。「この問題はしばらくおあずけにしておきましょう。しかし、プーシキンがわが国の詩的言語、わが国の文芸の言葉を創出したことは疑いのないところであり、我々、そして我々の子孫に残されていることは、ただこの天才のつけてくれた道をひたすら歩んでいくことなのです。」(アンリ・トロワイヤ『トゥルゲーネフ伝』)

 それを聴いていたドストエフスキーは、腹を立てた。彼にとってプーシキンとは絶対的なもの、ロシアそのものであり、評価を保留することなど考えられなかった。
 翌日、ドストエフスキーが演説する番だった。彼の次のような趣旨の発言を聴いて、聴衆は熱狂した。

 それでプーシキンとは? プーシキンのなかにはロシアの精神そのものが形をなしているが、彼はまた他民族の感性を感じとるという類いまれなる能力の持主でもある。いうなれば彼はロシアそのものであり、そしてまた全世界的でもある。シェークスピアは、その作品のなかにイタリア人を登場させているが、その人物はイギリス人として話している。とろこが、プーシキンは、『ドン・ジュアン』ではスペイン人として、『ペスト流行時の酒盛り』ではイギリス人として、『ファウストの断片』ではドイツ人として、『コーランの模倣』ではアラブ人として、そしてあの『ボリス・ゴドノフ』ではロシア人として書いているではないか。たしかに彼はいろいろな民族が理解できたし、すべてが理解できるからこそロシア人なのだ。(アンリ・トロワイヤ『ドストエフスキー伝』)

 そして、ドストエフスキーは、「キリストを最後まで守り通してきた」ロシア人こそが、西欧を救うのだと言う。聴衆は彼を予言者だと言い、婦人たちは月桂冠を彼に贈り、中には号泣する者まで出てくる始末。演説はドストエフスキーの完勝だった。
 トロワイヤは、『トゥルゲーネフ伝』で次のように書いている。

すでに彼は、自分が勝負に負けたことを悟っていた。いったいこんな苦役の場に、なんだってやって来たのだろうか? 自国を深く愛しながら、大げさな愛国心には嫌悪を抱いていた。ロシアの持っている価値に盲になるには、彼はあまりにヨーロッパをよく知っていた。おそらく芸術においても政治においても節度のある彼の態度は、大衆の好みに合わないのである。もっと利口なトルストイが、ドストエフスキーの戴冠式に参列する羽目にならないよう招待をことわったのは、もっともだった。「お頼まれしたので、私の演説の原稿をお送りします」と、トゥルゲーネフはマリヤ・サーヴィナに書いている。「面白い、と思っていただけるかどうかはわかりません。聴衆にはとくべつ感銘は与えませんでした。」

 日本においても、ドストエフスキーの話題は頻繁に出るが、ツルゲーネフのことを話している人はほとんど見たことがない。もう少し、この理性的な西欧派に、目を向けてもいいのではないだろうか。

参考文献
アンリ・トロワイヤ、市川 裕見子訳『トゥルゲーネフ伝』
アンリ・トロワイヤ、大塚幸男訳『ロシヤ文豪列伝』
アンリ・トロワイヤ、村上香住子訳『ドストエフスキー伝』

プーシキン

決闘で腹にピストルの弾をくらい、馬橇に運ばれるプーシキン

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?