文壇ゴシップニュース 第1号 ヒロポンを使っていた編集者、息子の恋人を寝取ったヴィクトール・ユゴー

編集者とヒロポン

 敗戦後の一時期、日本でヒロポンが流行していたことは有名だ。興奮作用によって肉体の疲労がとれたように感じることから、長時間労働の友として使用されることがあった。
『週刊新潮』の初代編集長で、後に新潮社の社長も務めた佐藤亮一は、新潮社に入社後、会社の事務組織が不安定なままであることを知り、立て直しを図ることになる。その際、ヒロポンを使いながら仕事をしたと江國滋に語っている。

 出版社の経済的基礎ってものは非常に底が浅いものなんだ。昭和二十四年、五年ごろでさえ、会社の事務組織が確立していなくて、なにしろキミ、大福帳だったんだから。一と月前の売上げなんかがトップにあがってこない。状況把握なんてできゃしない。これじゃしようがないっていうんで、僕がヒロポン打ちながら事務組織作り上げたんだけどね、同時に出版部員として、原稿の処理、装幀の依頼から、八ツ割りの広告まで自分で作っていたようなありさまでね

 戦後の新潮社の土台はヒロポンによって作られたのだった。

参考文献
江國滋『鬼たちの勲章──語録・名編集の秘密──』

悲惨な運命を辿ったユゴーの子供たち

『レ・ミゼラブル』、『ノートル=ダム・ド・パリ』の作者として知られるヴィクトール・ユゴーは、83歳という長寿を保ち、国葬に付されるという身分にまで昇りつめたが、自身の家庭環境には不幸がまとわりついていた。

 ユゴーには2歳上の、ウジェーヌという兄がいた。二人は文学好きであると同時にライバルで、共に詩の出来を競い合っていた。二人とも早熟だったが、先に芽を出したのはヴィクトールの方で、15歳の時、アカデミー・フランセーズが主催している詩のコンクールに応募したところ、選外佳作となり、ちょっとした有名人となった。もちろん、兄にとって弟に先を越されることほどつらいことはない。
 二人が争っていたのは詩の出来だけではない。幼なじみである、アデール・フーシェをめぐっても、二人はライバルだった。だが、この勝負もヴィクトールの勝利に終わる。
 ヴィクトールが19歳の時、最愛の母ソフィーが死んだ。元々精神的に不安定だったウジェーヌはこれにショックを受け、発狂した。翌年、ヴィクトールとアデールが結婚した時は、わめきながらサーベルで自分の部屋の家具を滅多切りにした。ついにウジェーヌは療養所に入れられ、ヴィクトルは罪悪感を覚えながらも、ほとんど見舞いに行くことはなかった。ウジェーヌは36歳で死んだ。

 1823年、長男レオポルドが生まれた。しかし、わずか3か月程度で死んだ。

 1824年、長女、レオポルディーヌが生まれる。子供が間をおかずに生まれたことから、「ヴィクトールは少しも休まずにオードと子供を生みだしている」と言われた。1843年、彼女はシャルル・ヴァクリーと結婚した。シャルルは事業家の父を持つ裕福な男だった。が、悲劇は結婚式から1年も経たずして起こった。
 シャルルはヨットの運転が得意で、その日も家族を乗せて公証人との待ち合わせ場所に向かった。そのヨットは、安定性に問題があったが、シャルルは石を積んで対応した。しかし、風に煽られたヨットは転覆。二人は溺死した。レオポルディーヌは19歳だった。

 1826年、次男、シャルルが生まれる。21歳になったシャルルは、アリス・オジーという女と関係を持った。美人だったが浮気性のアリスは、サイン帳にユゴーの詩が欲しいとシャルルに頼んだ。ユゴーは卑猥な内容の詩を送った。シャルルの前では一応怒って見せていたアリスだが、結局、ユゴーの元へと走った。息子は父親に女を寝取られたのである。
 1851年、ユゴーは独裁者化したルイ・ナポレオンと対立し、弾圧を避けるため、愛人ジュリエット・ドルーエと共にベルギーへ亡命した。ナポレオンはその気になればユゴーを逮捕・処刑することもできたが、民衆への影響が大きすぎると判断し、逃げるのを黙認したようだ。弾圧の余波で投獄されていたシャルルも1852年に父と合流した。彼はユゴーと正反対の気質で、弟一緒に政治新聞を創刊したが、あまり働かず、いつまでも父親の脛をかじって生きていた。
 ベルギーでナポレオン批判を行うことの危険性を知ったユゴーは、シャルルと共にイギリス領ジャージー島へ移住し、パリに残っていた家族も呼び寄せた(愛人ジュリエットも後からやってきた)。数年後、ヴィクトリア女王を茶化した亡命フランス人達を擁護したため、ジャージー島を追放され、ガーンジー島へ移動。
 シャルルは島で行き場のない性欲に苦しめられていた。何しろ、島には元々女が少ないし、数少ないナンパスポット(?)も、すでに親父のテリトリーになっていたからだ。ちなみに、親父は下女にも手を出している。耐えられなくなったシャルルは、とうとう島から逃げ出し、パリへ帰った。1865年にアリス・ルエーヌと結婚し、子供も生まれたが、1871年脳卒中で死んだ。享年45歳。

 三男、フランソワ=ヴィクトールは1828年に生まれた。ある時、ヴァリエテ座の女優アナイス・リエヴェンヌと恋仲になったが、周囲からは猛反対され、デュマ・フィスからは「恋をしている娼婦なんてものは、ロマンチックな芝居のなかにしか存在しないんだよ!」と叱られる有様。アナイスは彼を追ってジャージー島までやってきたが、親父が亡命者生活がいかに惨めであるかと懇々と説明し(実際は家族にそれを強制していたのだが)、金をやって追い返した。その後、エミリーという娘と婚約したが、彼女は肺結核で死亡。自身も、45歳の時に肺結核で死んだ。文学史的にはシェイクスピアの仏訳という仕事をしている。

 次女、アデールは1830年生まれ。ユゴーの子供の中で最も有名だろう。
 彼女の悲劇は、貴重な20代を島での孤独な亡命生活に費やされたことに端を発する。父ヴィクトールは、妻から娘の人生も考えてくれと訴えられたが、わがまま言うなと激怒した。
 元々活発なタイプではなかったようだが、人との交流がほとんどない暮らしが徐々に精神を蝕み始め、偏執狂的な様子を示し始めた(統合失調症と思われる)。彼女の心の支えはジャージー島で知り合ったイギリス人、アルバート・ピンソン中尉だった。彼との結婚を夢見た彼女は、他の求婚はすべて断り、1861年ピンソンと婚約したいと父に言った。ユゴーはナショナリストなので娘が外国人と結婚することに反対だったが、娘の精神状態を知っている妻は、ユゴーを説得した。
 そして、ピンソンを夕食に招いた。しかし、アデールの異常さに気付いたピンソンはその後アデールとの交流を避けるようになった。アデールは彼を取り戻そうと一人イギリスへ旅立った。33歳の時である。今でいうストーカーだ。それから彼女は中尉の駐屯地であるカナダのハリファックスに向かう。アデールはそこでピンソンと結婚したと家族宛ての手紙に書いた。ユゴーは娘が結婚したことを新聞で発表した。
 が、実は結婚は噓だった。カナダまでピンソンを追いかけたアデールは、その地でピンソンに妻子がいることを初めて知った。アデールは兵舎近くの宿屋に泊まり、ピンソンが出てくるのを待ち、彼が自宅に戻るのを後ろをから黙ってついていくということを毎日繰り返していた。英語のできるフランソワ=ヴィクトールが、カナダまで様子を見に来たことで真相が発覚し、ユゴーにも知らされた。
 ユゴーは猛烈な怒りはピンソンに向けられた。けれども、ピンソンは「ユゴー嬢の気をもたせるようなまねは絶対にしていない」と反論。カナダまで来てしまったアデールを追い返そうと第三者にまで仲介を頼み、最後には自分の妻まで見せたが、妄想が進んだアデールは彼と結婚していると思いこんでしまった。そして、家族から帰ってくるよう再三言われた彼女だが、カナダに残り続けた。
 1872年になって、アデールはパリに戻ってきた。ピアソンがバルバドス島に転属になった際、一緒についていったが、家族に詳しい住所を知らせなかったのでユゴーは仕送りができなくなった。そのうち、病気が進み、現地で保護され、セリーヌ・アルヴァレ・バア夫人という植民地の黒人の女が、アデールを連れてパリに来た。ユゴーにとっては生まれて初めて見る黒人の女だった。アデールは死ぬまで療養所生活を送り、1915年85歳でその生涯を閉じた。五人いるユゴーの子供の中で、唯一ユゴーより長生きした。
 彼女の悲劇的な人生を、フランソワ・トリュフォーが映画化している。邦題は『アデルの恋の物語』、主演はイザベル・アジャーニだ。アデールの狂気がアジャーニによって再現される様は凄まじい。

参考文献
アンドレ・モロワ、辻昶・横山正ニ訳 『ヴィクトール・ユゴーの生涯』
フランソワ・トリュフォー『アデルの恋の物語』

ユゴー一家

ユゴー家の集合写真。一番手前が、次女アデール。左からユゴー、シャルル、ユゴー夫人、フランソワ=ヴィクトール、ジュリー・シュネー、オーギュスト・ヴァクリー

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