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西洋美術雑感 36:ポール・セザンヌ「水浴」

これはセザンヌの晩年に描かれた超有名な絵「水浴」である。実は、正直、この絵は取り上げたくなかった。というのは自分は、この絵が好きじゃないからなのだが、前回のアングルとの比較から、いちばん極左な(あるいは極右?)これを出すのがよかろうと思って、出している。
 
単に好きじゃないなら無視すればいいのだが、この場合、そうもいかない。セザンヌの絵については、僕は、前に出したサント・ヴィクトワール山の風景画や、まだ出していないが彼の林檎を描いた静物画など、大好きなのである。その同じ画家の描いた絵を、しかも、彼の境地が円熟した時期に描かれた絵を嫌いだなんて、それは画家のせいではなく、自分の認識不足のせいであることを、自ら露呈しているようなものだからだ。
 
いままで、このシリーズでは自分の好きな絵だけについて語ってきたわけで、そうでない絵には困るのだが、とにかく、この絵について語ってみよう。
 
まず、この絵がなんでそんなに超有名で重要かというと、この絵がそのままピカソやブラックやマティスや、その他、欧米の現代美術の並みいる巨匠たちに多大な影響を与え、そして現代美術のその後の方向がそれで決定的になったからである。すなわち、当時の彼ら天才たちは、このセザンヌの醜い絵(失礼)に、多大なインスピレーションを得たのである。その絵を悪く言うなんて、自分は無知だと公言しているようなもので恥ずかしい。
 
ただ、たとえば、サルバドール・ダリは、この絵も含め、セザンヌを味噌糞にこき下ろしており、なんか個人的恨みでもあるのかよ、って言うほど、あの手この手で罵倒している。なので、別に、僕が恥ずかしがる必要なんてないのだが、芸術のいち信奉者としては、心苦しいってわけだ。
 
さて、では、この絵を見てみよう。まず、この女の裸体。前景には十人ほどいるようだが、これはひどい。およそ、女体の美しさのかけらもなく、ほとんどわざと醜く描いたとしか思えない。顔はすべて鉄人28号の仮面みたいで、なんの表情も読めないし、女体のカーブは故意に崩されているし、解剖学的にも誤っているを通り越し、故意に醜い方向へ変形させているとしか思えない。アングルのトルコ風呂の女体を思い起こすまでも無いと思う。すなわち、かの濃厚なエロスを醸す有機的で蠱惑的な女体の性的魅力と、完全に、完膚なきまでに反対の世界を描いた、としか思えないのである。
 
たしかに、木々の作る三角形と裸体の作る「形状」としてのコンポジションは悪くない。あと、セザンヌの絵に特有な色面を緊密に調和させる手法はここでも完全に機能していて、美しくはある。すなわち、描かれた内容さえ見ないようにできれば、ビジュアルとしては美しい絵、と言えるとは思う。しかしながら、僕ら人間には理性と心があるわけで、これを見て、どうしても、これは水浴びであって、裸の女たちが気ままな姿勢で集っているのであって、きっと彼女らはこの開放的な環境を楽しんでいるのであろう、と考えてしまう。ところが、当の絵は、その心に浮かんだ「人間的な」感情をことごとく裏切るわけだ。
 
ということは、芸術は、いわゆる人間的なものとは関係なくなり得るもので、感情と芸術表現は異なるカテゴリーであると主張してもいい、ということになる。すなわち、芸術は、これまで飽くことなく繰り返し表現されて来た人間劇から自由になれる、ということを意味する。その人間劇は芸術をいままで常に蹂躙していたわけで、われわれはそういう足枷から自由になれるはずではないか、と、セザンヌの後世の天才たちが得たインスピレーションは、おそらく、そこであろう。
 
僕らはすでに、この絵から百年以上たった現代に生きているので、いわゆるポストモダンは当たり前の世の中であり、芸術に限らず、およそあらゆるものが、そこに歴史的にまつわりついている「意味」を振り払って、おのおの勝手な解釈を受け入れて当然と思っている。ちょっと難しい言い回しになったが、そんな難しいことは言っていない。要は、僕らは、たとえば世紀の天才が生んだ芸術作品であっても、その歴史的事実に屈する義理など毛頭なく、作品の前で自分が見て感じた通りのことを、勝手に何を言ってもいいことになっている。
 
でも、そういうポストモダンな現代の我々が出てくるためには、その歴史的な経緯と理由というものがある。それがこのセザンヌの絵であって、それに触発された現代美術だったのである。
 
そういう、現代美術からポストモダンのわれわれ現代人を生むきっかけになった作品であるとすることは、美術史的に結構なことなのだが、百何十年か前のセザンヌその人は、いったい、そんな、彼が死んだあとに広がる世界観を意識してこれを製作しただろうか。美術解説とかで、この水浴を素晴らしい絵として紹介し、それについて語るに、セザンヌには青春時代に、こんな湖のほとりで楽しむ男女に深い思い出があり、その経験を晩年になって絵画によって表現したのです、などと解説するのを読むと、僕はいたたまれなくなる。
 
その青春時代の性的エネルギーに満ちていた若さと歓喜の絶頂を、こんな干からびた、醜い絵でしか表現しない、というのは、いったい、どういう老人なのだ、とどうしても思ってしまう。で、実はダリのセザンヌの罵倒は、ほとんどそれに集中しているのである。セザンヌはデッサンが下手だったから自分の母が死んだときも近所の画家を呼んで母の顔を写してもらった、とかむちゃくちゃなことを言っている(ホントかどうか、知らん。ダリに聞いてくれ)
 
というわけで、とにかく、唯一はっきりしているのは、この絵は、その後の現代美術に多大な影響を与えた、ということである。そしてアングルのあの濃厚なエロチシズムは、芸術史としては、あそこで終わっている、と言っていいと思う。つくづく、世界というのは、不思議なものだ。


Paul Cézanne, "The Large Bathers", 1906, Oil on canvas, Philadelphia Museum of Art, USA

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