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西洋美術雑感 7:シモーネ・マルティーニ「寺院で見つかったイエス」

実は僕はイタリアルネサンス最盛期の芸術が苦手である。画家でいえば、ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロがいちばん有名だと思うが、そりゃあ奇跡的なほど美しいことは分かっても、どうしても自分のネイチャーと合っていない。ヨーロッパの美術館へ行くと、このルネサンス期の絵画がこれでもか、と掛かっているが、だいたい素通りしてしまう。

なにがダメかというと、僕には健康的過ぎるのである。

ところが、これが前期ルネサンスとなると、ひょっとすると自分が西洋古典絵画でもっとも好きな画家はそこに集中しているのではないかと思うほど好きな画家がたくさんいる。今回はそこからだけど、以前、聖アゴスティーノを出したシモーネ・マルティーニの「寺院で見つかったイエス」である。

実は、僕はこの絵の実物を見ていない。調べるとリバプールだって。ビートルズついでに見に行ってくるか? それはともかく、マルティーニの画集に収録されたこの小品が、自分は好きで好きでしかたなく、暇さえあれば見ていたよ。

これは右がまだ小さいイエス・キリスト、真ん中がお父さんのヨセフ、左が母のマリアである。お父さんは困ったような顔をして、コレ、イエスやお母さんに謝りなさい、みたいにしているが、このガキのイエスの顔を見てくださいな。もう、むちゃくちゃ偉そうで傲慢そうにお母さんを見下ろしている。なんという生意気なガキであろうか。ところがだ、それを受けたマリアの顔を見て欲しい。この表情の冷たさはもう異常である。イエスの傲慢なんかものともせずに、超冷たい顔で見返している。まさにこの親にしてこの子ありではないか。これではっきりするのは、ヨセフは実の父親じゃない、ってことだろうね。でもマリアとイエスは血がつながってる。

まあ、こんな邪推みたいなことはどうでもいいんだが、こういう、聖なる物語と、絵画上の捻じれ、というのが前期ルネサンスにはたくさん出てきて、そのあまりの魅力に本当に夢中になってしまう。

ところで、このシーンは福音書に記述のある有名な箇所で、あるとき、マリアとヨセフと12歳のイエスが一緒にエルサレムへ行くのだが、家に戻ったらイエスがいない。えらく心配した二人がエルサレムに引き返したら、イエスが寺院で坊さんたちと話し込んでいるではないか。マリアはイエスを捕まえて、なんでそんなことをするのか、と怒るのである。イエスは「なんで私を探すのですか。私は父なる神の家にいるのを知らなかったのですか」と答えるのである。まあ、やっぱり生意気なガキである。

それはともかく、ここでのポイントは、イエスの傲慢顔と、マリアの超冷たいこわい顔と、ふつうの人なヨセフの困り顔の対照であろう。そして、解剖学的に言うところの身体デッサンの微妙な歪にもぜひ注目である。リアリズムに正確でない代わりに、二次元的にものすごく神秘的なコンポジションを形作っている。

こういう、なんというかアンバランスな魅力が、前期ルネサンスの百年間にはいくらでも見つかる。ところがその後の最盛期のルネサンスにはぜんぜん無いのである。それで僕はルネサンスがだめなの。

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Simone Martini, "Christ Discovered in the Temple", 1342,  Tempera and gold leaf on wood panel, Walker Art Gallery, Liverpool

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