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西洋美術雑感 15:ヒエロニムス・ボッシュ「快楽の園・地獄」

引き続き北方の絵画から、ヒエロニムス・ボッシュである。
 
彼の絵は、いまのこの科学とリアリズムが常識な時代から見ると、もう破格に奇妙な絵で、おそらく今の人はこの絵の分類に困ると思う。というか、まず、ここに描かれたおびただしい数の半怪獣みたいな生き物と、奇妙で謎めいた人間の振る舞いについて、これがなにを意味をしているか、という詮索に明け暮れる始末になると思うし、実際、大半がそうなっている。
 
でも、そもそも、そういう反応を僕らがしてしまう、というところに、僕ら現代人の画一化された人間のあり方があるのかもしれないね。僕らは何かに接するとすぐに「なぜ」という問いを発するし、しまいには、「なぜ」と問うことができることこそが人間を他の動物から隔てているのだ、と言い出す始末だ。正直、傲慢もはなはだしい。それは、結局は、「知性」を生命でもっとも重要な要素とする、一方的な知性主義だし、しかもこの現代では、その知性の範囲は極めて狭い。
 
そんなところにこういう絵画を持って来るのは、なかなか良いと思う。なぜ、と問う前に、まず、見るんですね。
 
ここでは、彼の大作でもっとも有名な、プラド美術館にある快楽の園の三枚パネルの右側の「地獄」とされているパネルのさらにその一部を上げている。ボッシュは実際はそれほど多くの点数が無いのだが、多くがこの手の奇妙な描写に埋まっている。見りゃすぐに分かるけど、これはホントに飽きない。
 
ボッシュはカトリックの信者で、北方にプロテスタントの嵐が吹き荒れたときに、画業は止めた、と言われている。これだけで結論することはもちろんできないけど、ここに描かれた発酵した想像力は、カトリック的土壌から生まれている、という風に自分は見ている。僕は実はプロテスタントには否定的な人間で、カトリックの人間らしさに惹かれるタイプである。神秘と奇跡と、欲望を奇妙に変形させたうえで肯定するのも、自分の趣味に合っているのである。
 
ところでこのボッシュの地獄の絵の一部だけど、これは僕にとっては、ほぼダイレクトに、ロシアの大作家ドストエフスキーが描いた世界を連想する。いろんな秘密の部屋がいろんな通路でつながっていて、そのひとつひとつの部屋では人知れずなにかとてつもなく奇妙な儀式が行われている、みたいな、一種の幼児性の現れである。幼児というのは、自然の中、そして大人の作った社会で生きることそのものが、そういうめくるめくワンダーランドに常に囲まれているようなものなはずだ。大人になるうちにそういう感覚はきれいさっぱり忘れてしまうものだが、たまにそういうことを思い出すタイプの人はいまだに多いでしょう。そういうときに、幼児の口唇期とか肛門愛とか、そういうまだ未分化な欲望のさまざまな変形のようなものに次々と遭遇して、幼児は訳も分からず、そのとろけるような快感に心を奪われることが起こっているはずでしょう。
 
ボッシュにもドストエフスキーにもそういう一種の幼児性があって、それを共有しているように、自分には見える。自分はドストエフスキーで育ったと言っても過言でない青年時代を過ごしたので、ボッシュはそのドストエフスキーのある一面を確実に共有しているように見えるのである。
 
ボッシュの絵はどれを取ってもそんな感じなので、彼の絵を見て幼児に戻るのもいいかもよ。で、絵を見たあと、幼児から大人に返ったときに、なぜ、と考え始めるなら、それはいい。それから、このおもしろい絵の部分を切り取るのは気が引けた。あと、真ん中のパネルの「快楽の園」が実は破格におもしろいので、知らない人は調べてみるといいと思う。知っている人も再び見るといいと思う。

Hieronymus Bosch, "The Garden of Earthly Delights", Oil on oak panels, Museo del Prado, Madrid, Spain


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