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西洋美術雑感 42:ポール・ゴーギャン「おまえはなぜ怒っているのか?」

ゴーギャンは後期印象派のフランスの画家だが、後年、南半球のポリネシアのタヒチ島へ渡って、そのプリミティブな風景に現地の女が登場する絵を多く描き、それが特に有名である。僕は、それらは、純粋に視覚的な意味で好きだった。タヒチへ渡って以来の彼の画布の色彩はとても純度が高く、それを大まかな地図のように組み合わせて塗り、加えて、さまざまな言葉で意味づけされた象徴物の不可解な組み合わせの、その詩的な様子も好きだった。

実際、ゴーギャンという人間は、才能に満ちあふれた知的な人で、絵の才能はもとより、文学や詩や批評の才能もあり、恐ろしいほどの精力家であり活動家であり、政治的に立ち回ることに長け、プライベートでは家も建てれば、料理もできるし、女にももてた。ちなみに、ゴーギャンはフランスのアルルでかのヴィンセント・ヴァン・ゴッホと二か月間共同生活を送った経験があるのだが、以上のゴーギャンの多才さに対し、ヴィンセントはほとんどことごとくその逆だったのも面白い。思うに、その結果、その二人から出てきた絵画がどうだったかというと、ゴッホの絵が見事に無意識から湧き出る不可解な神秘を表していたのに比べ、ゴーギャンの絵は一種感傷的な絵が多かったように、僕には見える。

そんなゴーギャンに僕が初めて触れたのは、そのむかし、京都でやっていたシカゴ美術館展に出かけたときだった。ルノワールの「テラスにて」という有名な絵が来ていて、行ってみると黒山の人だかりで見ることもかなわず、うんざりして、あきらめてそこから離れて歩いていたら、そこでたまたま出会ったのがここに上げたゴーギャンの「おまえはなぜ怒っているのか」という題名のタヒチで描かれた絵だった。

その絵の前に立ったとたん、自分にはゴーギャンその人の声がじかに聞こえたような気がして、驚いた。

ちょっと唖然として、その絵の真正面の少し離れたところにずっと立っていた。たくさんの来場客が絵の前を通り過ぎて行った。ほとんどの人が、絵の中の誰が誰に対して怒っているか詮索している。あるいは、色の対比を褒める人、さまざまな姿態の人物の象徴的意味の蘊蓄を語る人、ゴーギャンが昔から好きだったと力説する人、いろいろ現れた。一人の客など、絵の前にしばらく立ったあと「失敗だ」とつぶやいて去っていった。

では、怒っているのは誰なのか。

将来を嘱望される証券取引所の実業家で、豊かな収入で妻子を養う幸せな家庭を持っていた彼が、やがて、やむにやまれぬ画家たらんとする情熱に動かされ、勤めを辞めて画業に走り、たちまち貧窮したことを、妻のメットは決して許さなかった。タヒチへ渡る直前にゴーギャンは、友人のシャルル・モーリスに、自らの苦境と、ヨーロッパから永遠に去る決心について話し、それから静かにカフェの片隅へ行くと、顔を覆って泣き出したそうだ。友人はこの男が泣くのか、と思い、ぞっとしたと書いている。

僕が絵の前で聞いたゴーギャンその人の声は、こう言っているように思えた。

「怒っているのは、あなたがたと、そしてこの私だ。私たち現代人は、その自尊心から常に何かを望み、饒舌をふるい、活動し、競争し、怒り、戦い、十回抱き合っては十回いがみ合う生活を続けている。ここタヒチの南国にはそんな現代の喧騒は無縁なはずだった。しかし、この現代、実際には、すでにそれはこの南国にまで及んでいる。が、しかし、少なくとも私がこの画布の上に定着した世界では、すべてが野蛮のまま留まっているのだ」と。

彼が絵画の上で創り出した世界は彼の理想郷であった。彼は、遠くタヒチまで来てみても、一向に自らも脱出できない現代文明に対して、この画布の上の世界だけはそういったものから自由であることを願った。デッサンはますます沈黙し、色彩はますます純潔を求める。彼の創り出した世界は芸術的創造物と言うよりは、彼の悲しみと感傷の産物だ。

僕はしばらくこの絵の前に立っていたが、次第に耐えられなくなってきてその場を離れた。一枚の絵画のその内容に、こんなにはっきりと心を揺さぶられたのは初めてだった。あまりに悲しいと思った。その文学的な内容が自分の心を揺さぶったのであった。実はそのとき、まだ若かった自分は、こういう他人の感傷にこれ以上付き合いたくないと思い、そののち、ゴーギャンの絵から一歩遠ざかることにした。

でも、きっと、あれから長い年月が経ち、さんざんいろんな目に合ってきた自分がいま見たら、その感傷のほろ苦さと、この純潔な色彩の対比に、涙するような気がする。


Paul Gauguin, “No te aha oe riri (Why Are You Angry?)”, 1896, Oil on canvas, The Art Institute of Chicago, USA

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