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西洋美術雑感 38:エドガー・ドガ「アブサン(カフェにて)」

ドガの絵を出すのであれば、まずは、有名なバレリーナの絵や、水浴する女や、競馬の動く馬を描いた絵など、そういうものを上げるべきなのはわかっているが、ここでは彼が中期に描いたこのパリの場末を描いた絵にした。ここで白状するが、僕はドガの絵が実はそれほど好きではない。ドガのようなすばらしい芸術家をつかまえてそれはないのだが、自分に引っかかるものがあまりないのである。
 
先にあげた彼の有名な画布の数々は、いずれも「動き」をとらえていて、当時はすでにカメラが普及し始めた折でもあり、彼が動きを絵画で切り取る様子は、カメラマンがとらえた絵に近いと思ってもいいかもしれない。そういう意味では、ドガの画布の中にあるのは、現実の曇りない写しであって、そこに心理的なものや物語的なもの、すなわち芸術家による勝手な人為的なものがほとんど感じられない。仮にそれらがあった場合でも、それは、それこそ近代のカメラマンが現実を切り取ることによってその被写体の姿を伝える、あの手法によっているように感じられる。誤解して欲しくないが、だからと言ってドガの絵が写真みたいだ、と言っているのでは決してない。彼の画布は、彼独特の秘訣で現実を写したもので、膨大な研究と、最高のセンスと、最高に知的な頭脳が生み出した、あくまで絵画の一連の傑作なのである。
 
さて、この絵は、元の題名は「カフェにて」という単純なものだが、その後、「アブサン」という名前になったもので、パリの場末のカフェで男女が酒を飲んでぼんやりしているところを描いている。アブサンというのは当時のパリで流行った麻薬性があると言われる緑色がかった酒で、女の前に置かれているのがそれだ。右となりの男はどうやら赤ワインを飲んでいるようだ。女は画面の中央にいるが、画面の左と下半分の、全体のほぼ半分の面積が、交錯するテーブルと床という漠然とした空間で占められていて、これはドガがよく使う構図である。それらに押されて、右の男はフレームからはみ出てしまっている。その変な構図のせいで、荒涼とした場末のわびしい一瞬が見事にとらえられている。
 
ところで、この時代のパリでは、こういう場末の底辺に目を向けて描写の対象にする、という芸術がいろいろ出てきたころでもあった。僕がすぐに思い出すのはボードレールの「パリの憂愁」という素晴らしい散文詩だが、それだけでなくいくつもある、そういう時代だったのだ。言ってみれば、それまでは芸術はきれいごとばかり相手にしていたわけで、ここに来てようやく底辺の人々の成す場末文化が、最高のセンスを持つ芸術家たちを通して表面に現れ始めたのである。
 
そして、その最高のセンスを持つ知的な人々が、この時代のフランスに、これでもかというほど現れた。実は、自分にとって、ドガはその一人という扱いになっている。
 
それというのも、ポール・ヴァレリーという詩人の書いた「ドガ・ダンス・デッサン」という有名な本があり、自分はそれが大好きなのだ。これは短めの断章が脈絡なく並んだエッセイ集で、ドガその人と、その絵画、そして芸術について、ヴァレリーが実際に見聞きした経験の雑感が述べられている。これは心底すばらしい本だが、いま読まれているとはあまり思えない。現代の薄っぺらい知性を振りかざす知識人も、こういう本を読んでヴァレリーのような本物の持つ豊かさを、形だけでも真似て欲しいものだと思う。
 
ドガのこの場末の絵は当時、だいぶ物議をかもしたらしい。いろいろな評論家やらジャーナリストやらが、この目的や意味のないただの場末の堕落を写しただけの絵を批判したそうだ。ある人は、とるに足らない不道徳な風景を描いただけ、と言い、ある人は、社会の底辺にいる人々をリアリズムで描き出し社会問題を抉り出した、と言い、ある人は、赤裸々に堕落を描くことで道徳の崩壊に警鐘を鳴らした、などなどと言ったらしい。その当時は芸術作品には大義名分が必要であって、単に場末の飲み屋へ行ってカメラのシャッターを切りました、などというのは許されなかったのである。
 
いまの僕らは、作品に目的や教訓やそういう意味を読み取る必要はなく、見た人めいめいが好きなことを感じればそれでいい、と当たり前のように思っているが、そうなったのはごく最近のことだ。そんな好き勝手なことを言っていられる僕ら現代人に至るまで、このドガの描いた絵のようなものに賛否が起こり、時にスキャンダルになり、そして、そのおかげで今のこのえらく個人が自由な僕らがいるのだ、ということは忘れない方がいい。


Edgar Degas, "The Absinthe Drinker", 1875–76, Oil on canvas, Musée d'Orsay, Paris, France

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