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西洋美術雑感 41:クロード・モネ「しだれ柳」

モネの絵で自分がいちばん好きなのは、中期から晩年にかけての、あのひたすら光の効果のみを追求して、他の雑音がほとんど入らない一連の画布である。積みわら、ルーアン大聖堂、睡蓮、日本の橋、といった平凡な、意味のほとんど入る余地のない主題を、ひたすら光の効果をさまざまに変えながら描く、あの純粋に視覚的な追求はすばらしく、頭を空っぽにして見入ってしまう。あるいは、以上のモネはいささか行き過ぎなところもあり、まだ人間とかが現れる風景の光を描いた「散歩、日傘をさす女」のような絵の方が安心して見られる人も多いだろうと思う。

ここではモネの最晩年の絵の中でも特に極端なものを上げてみた。これはしだれ柳を描いた絵だが、見れば分かるが、ここまで来ると、もうほとんど抽象画になっている。実はこれが描かれたころ、モネは白内障にかかり、目が見えにくかったらしい。もちろん、絵がこのようになってしまうのは、その目の衰えのせいはたしかにある。でも、そんな説明はつまらない話で、目が見えようが見えまいが、すぐれた画家の絵は、すでに、われわれ凡人に付いている眼などという当たり前な生理器官など、とうの昔にすっ飛ばして生まれていると考えていい。じゃなければ、どうしてあんな絵が描けるものか、と思う。

この絵では、物の形は筆触と色彩の中に埋没してしまっているように見えるが、その画面の上のビジョンは、呆れるほど的確で、文句なく美しい。

ところで、芸術家がその晩年に向かって、その作品がますます抽象度を増し、輪郭のはっきりしないものになって行く、というのはときどき見られる現象である。モネ以外でも、セザンヌの風景画、ゴッホの自然描写、ゴヤの不気味な絵、ミケランジェロの彫刻も、どれも、若いころはきちんと視覚的にはっきりした形態を写しているのに、晩年になると、輪郭がはっきりせず、不安定で、解釈が不確定で、カオスのようなものが作品を支配するようになる。そのせいで、一見するとつかみどころがなく、誤解を恐れず言えば、下手な不器用な作品に見えてしまったりもする。もちろん、それとぜんぜん違うタイプの芸術家もいる。たとえば前に紹介したアングルなど、晩年まで実に安定している。

それにしても、先に上げた芸術家たちは、なぜ、そのようになるのか。思えば、このモネの絵を見ていると、このあと現代美術になり、そこで、抽象画とかアクションペインティングとか、そういうものが生まれ出るのは、ほとんど必然のような気がしてくる。このモネの絵も、一種のアクションペインティングを想起させるようにすら見える。

僕はこの現象につきこんな風に思う。若いころは自分の表現したいものが明確にはっきりとしていてそれ自体が力を持っていて、それを作品として他人の前に現わして、それで他人を説得する、というような一方向な表現活動が支配的なのだが、最晩年になると、不定で不確定だけどエネルギーの塊のカオスのようなものを他人の前に置いて、自分が死んだ後もそこから何かが新しく生まれ出てくることを望んでいるようなものが、前面に出るのではないか。

目が見えにくくなったから、身体が動かなかったから、という身体的不自由のせいでこのような作品になったとか言う、よくある理由付けはいくらでもできる。ゴッホやゴヤのような画家になるとこれに精神病も加わり、それがさまざまに作品に影響する。けれど、それらの身体的そして心的な不自由を含めてその芸術家は形作られているのであって、その世界から作品が生まれているのだ。

後世の芸術家たちは、その表現を作者の心身の不自由にして理由付けすることなどに興味があるはずがなく、彼らは同じ芸術家として、その特異な表現の中に何か新しいアイデアを見つけて、それを発展させて、そして新しい時代が開かれるのである。


Claude Monet, "Weeping Willow", 1920 -1922, Oil on canvas, Musée d’Orsay, Paris, France


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