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西洋美術雑感 35:アングル「トルコ風呂」

これはアングルの有名な絵「トルコ風呂」である。もちろん印象派絵画ではなく、印象派画家たちが対抗した当時のアカデミズム画壇の頂点に君臨する画家アングルの最晩年の作である。これが描かれたとき、ちょうどエドゥアール・マネの「草上の昼食」が発表されて物議をかもしている。つまりこれは、アカデミズムと新進の画家たちの対立が劇化しはじめた、その時期に当たっているのである。
 
しかし、アングルはそんな対立などものともせず、古典絵画手法で女の裸体をこれでもかと描きまくっている。これを描いたとき、アングルはなんと83歳だったそうだ。いつの時代のどこのトルコ風呂がこうだったかは知らないけれど、そこは蒸し風呂で、女たちの社交場だったそうだ。アングルは人から聞き知ったその話でこれを描いたわけで、実物を写生したわけではない。
 
前にあげた背中が秀逸な浴女がここでも登場して、いい場所を占めているが、彼はこの全体のコンポジションをいろいろデッサンしたあげく完成したらしい。
 
アングルの描く女の裸は、美しく、均整が取れていて、いやらしさを感じない、と評されることがほとんどだが、さすがにここまで描きまくると、これはエロと言って構わないのではないか。日本でいえばいわゆる春画である。セクシャリティが不道徳である、というのにはいろいろ起源と歴史があるけれど、それへのカウンターというのはあるわけで、たとえばニーチェなどは、芸術における性的興奮をもっとも大切な芸術の一特徴としたりしている。一方、芸術は性的興奮を鎮めるためのものである、とショーペンハウエルとかは論じるんであって、彼に影響を受けたニーチェはその正反対のことを言い、そのせいでドイツ文化を味噌糞にこき下ろし、フランスの文化を絶賛したりしている。
 
まあ、このアングルのこれがそのフランス文化そのものですよね。それにしても女性がなかなかに誘惑的で、僕は男だからか、この裸はいくら見ても見飽きないな。たしかにそれほどいやらしくは感じないが、やっぱり性的な誘惑や魅惑は十分に感じる。美学者たちのように形態ばっかりああだ、こうだ、と言うわけにはいかない。それより前にこれは誘惑的でしょう。
 
で、ところで画布のセクシャリティを強調した後に、ちょっと美学的なことを言うと、アングルは当時、新古典主義と呼ばれる正統派の流派のトップにいて、そこでは、盛期ルネサンスの後期のラファエロの描いた図像を理想とし、その後、その形態を誇張し、強調し、変形し、進化させたマニエリスムがその到達点であった。その当時のバロックのたとえばカラヴァッジオの動的な感じではなく、形態美を何より優先したのである。対象物の中からいかに美的な形態を取り出すか、である。
 
これについては、ダ・ビンチがおもしろいことを言っていて、「デッサンのコツは、波動のうねうねが中心から広がって行くその波に形を見出すことだ」みたいな言葉がある。これは、彼でもミケランジェロでもラファエロでも、ルネサンス後期以後なら誰でもいいので、西洋古典画家が多数の人間が登場するシーンを描いたデッサンの習作みたいなものを見ると、たぶん納得できる。そうなのである、中心から発したひとつの波が、さまざまな姿態の人間の形を生み出しているのである。
 
その波のカーブが、人体の形態の調和なのである。というわけで、このアングルのトルコ風呂の画布に戻ると、まさにこれは波のうねうねの究極の姿で、それを大量の女体を使ってそのまんま描いたという感じがするではないか。


Jean-Auguste-Dominique Ingres, "The Turkish Bath", 1862, Oil on canvas, Musée du Louvre, Paris, France

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