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(童話)「半獣王β版 第二章」


    二章

 まだ夜が明けない、未明。眠ったふりをしていたラフティは、行動を起こす。予め準備して隠しておいた旅の荷物を取り出し、隣で眠る母親を起こさぬよう、そっと家を出る。ラフティの大きな旅が始まろうとしていた。
 薄暗い歩きなれた道を歩き、村の出口までやってくる。門をくぐると、ラフティは母親への未練を断ち切るように全力で地面を蹴り走り出す。
 振り向いてはいけない。今はまだ、前を向いて進まなくては。そのうち人の姿で走るのがもどかしくなり、ラフティは獣体、熊になる。熊の姿の方が走りやすい上、速かった。早く、もっと早く、一刻も早く村から離れたい。じきに空が白み始め、山肌から一筋の光が刺す。朝陽を横目に感じながら、ラフティはがむしゃらに走った。
「はあ、はあ……」
 太陽が完全に姿を現した頃、ラフティは草原の中にいた。適当な地面に身体を投げる。走り過ぎて、もう一歩も前へは進めないと思った。荒い息を整えながら空を見上げる。何も考えたくなくてただただ下を目指して走ってきた。道などない、荒れた土地を、ただ真っ直ぐに進んだつもりだ。
「……帰り道、分からないな、もう」
 ふとそんな言葉が口をついて出る。帰ることはもうないはずなのに。空に浮かぶのは母親の心配そうな顔だ。きっと今ごろ、隣の寝床にラフティの姿がなくて慌てているか、探しているかだろう。
「ごめん、母さん。……元気でね」
 言えなかったお別れの言葉は、独り言にしかならない。それでも、言葉にすれば少しは気が晴れた。
 どれくらいその場で休んだだろう。ゆうべから一睡もしていなかった身体は確実に疲れを感じている。目を閉じると、次に目を開けた時、照り付ける太陽はちょうどラフティの真上に位置していた。
 ラフティはハッとして身体を起こす。もしかして家を出たのは全て夢だった……なんて事ではないだろうか。
「……ここ、どこだろう」
 夢ではないことに安心した反面、この後どうしようかという不安が胸に込み上げる。どうしようも何もない、ラフティにはもう獣族の国を目指して前に進む以外の道はないのだ。
 しかし問題は、方角だ。眠ったことによって、ラフティはどちらが人間の国でどちらが獣族の国なのかがわからなくなっていた。
「大丈夫、落ち着け。太陽の位置で方角が分かるって習っただろ」
 ラフティは自分が熊の姿だということも忘れて、前に進むことを考えた。
「うん、こっちだ。こっちが獣族の国だ」
 高大な草原の中、見据えた方角の先には何もない。葉の生い茂った、ただっぴろい草原が続くばかりだ。
 ラフティはこの先に父親がいるという希望を信じ、脚を進める。今度は走らず、一歩を踏みしめて前へと進んだ。

 歩いて、歩いて、後ろを振り向くと、あるのは地平線まで続く草原。自分がどれほど遠くまで来たのか、既にラフティには分からない。しかし大体の居場所はなんとなく分かる気がした。世界地図を持っているからだ。高大な草原地帯は、世界地図でも1つしかない。人間の国の国境はその草原の中を突っ切るように横に伸びていた。
「国境ってもう過ぎたのかな?」
 行けばわかると思っていたが、国境と分かるものはここまで歩いて来て何もなかった。しかし行く先にも高大な草原以外は何もない。歩きなれない柔らかい土の上をただ進みながら、ラフティは首をかしげた。
 辺りは徐々に茜色に染まり、じきに夜が来る。野宿する場所を探さないと、と思い至り、そこで初めて朝から何も食べていないことに気がついた。
「そういえばお腹減ったな」
 家から持ってきた荷物に、蒸かしたイモがある。移動するにはちょっと重いと思ったが、食料は多い方がいいと思い、たくさん準備していた。
 見渡す限りの草原の中、ラフティはその場に腰を下ろす。持っていた荷物を漁り蒸かしたイモの袋を取り出し、食べた。あまりバクバクと食べないよう、ゆっくり味わう。お腹いっぱいまでは食べないよう気を付けた。そうしないとすぐに食料がなくなってしまうからだ。長い旅になるのだから、少しでも長持ちさせた方がいいに決まっている。
 用意した拳くらいの大きさのイモを2つだけ食べて、水も少し飲み、ラフティはその場に寝転んだ。辺りはもう薄暗く、夜の虫の声が聞こえ始めていた。
「……あ、月だ。薄いなあ」
 薄く尖った三日月を見つけて、ふっと笑みを零す。よく見ると、少しずつ星が輝き始めていた。
「星空なんて、最近見てなかったなあ。小さい頃はよく、母さんと夜空を眺めたっけ」
 夜を感じさせる独特な紺色の空気を胸いっぱいに吸いながら、ラフティは胸で大きく深呼吸する。不思議と、村を出て初めての夜は心が落ち着いていた。
「野宿って初めてだけど、熊の姿だと何だか楽だな」
 着ていた洋服は熊の姿だと小さいので、脱いで荷物の袋に仕舞ってある。靴はいつの間にか脱げて、どこかに置いてきてしまっていた。しかし熊の姿なら靴も邪魔なだけなのでさほど気にしない。これから獣族の国へ行くのだから、人間の姿で靴を履く必要もないかもしれない、とラフティは感じていた。
「獣族の国って、どんな国なんだろうなあ。いろんな獣がいるんだろうな、きっと」
 自分のような熊や、オオカミもきっといるだろう。虎やライオンのような肉食獣だったり、象やキリンのような大きな草食動物。ウサギやネズミ、ハムスターもいるかもしれない。大きかったり、小さかったり、するのだろうか。
「ふ……」
 いろんな動物たちが同じ国に共存する街を想像して、なんだか笑みが溢れた。
「いいなあ。平和な国だといいなあ」
 その昔、人間の国と獣族の国とで戦争が起こったことがある、と学校で習っていた。戦争は冷戦状態に入り、そのままの状態をもうずっと長いこと維持し続けているらしい。
「あ、そっか。獣族の国は1つしかないから、戦争もなにもないのか。人間の国と違って、国同士のいざこざなんてなんだよな」
 そう思うと何だか安心する。人間の国がどうして5つもあるのか、それは人間同士の対立からくるものだということを、ラフティは学校で習って知っている。人間の国で育ったラフティにとって、人間の醜い心からくる対立などは容易に理解ができた。
「すごいなあ、獣族の国。人間の国5つを全部まとめても、獣族の国は1つで3倍の大きさはあるんだもんなあ」
 未知の世界である獣族の国を思うと、想像が止まらない。賑やかな心は、広大な草原にたった独りだということを忘れさせてくれる。独りきりでも、獣族の国の事を思うと寂しくはなかった。
「ふあ……あ」
 たくさん歩いて疲れているせいか、もしくは食べてお腹が満たされた為か、大きな眠気がやってくる。ラフティは眠気に逆らうことはせず、そのまま目を閉じた。
「明日もいっぱい歩こう。この草原を抜けられるといいなあ……」
 たくさんの虫のさえずりをどこか遠くに聞きながら、ラフティは深い眠りに落ちた。


 ふと、ラフティの黒い大きな鼻に何かが触れた。
「っ……ヘックション!!」
 違和感に慌てて飛び起きると、バッタらしき虫が向こう側へ飛んでいくのが見えた。
「……」
 ぼーっとしながら、ラフティは一面に続く草原の中央でお尻を地面に付けて座り込んでいる。
「……あ、そっか、ここはもうソヌル村じゃないんだ」
 すっかり明るくなった空は、地平線よりもちょっと高い位置に太陽を抱いていた。
「母さん、湯冷まし作るのに腰痛めてないかな? 2人分の朝ごはん、作ってたりして」
 朝の日課をしなくていいこの状況がなんだか落ち着かない。だけど村を出た事を後悔するわけではなかった。
 ラフティは朝ごはんとして、蒸かしたイモを1つ食べて、残りは仕舞う。そうして重い腰を上げて立ち上がった。
 太陽の位置を確認し、方角を見る。獣の国へ向けて、真っ直ぐと歩みを進めた。
 この日も歩きつづけ太陽が傾きかけた頃、次第に草原の草以外のものが地平線に見えてきた。
「……木だ。木がたくさん見える。森かな?」
 地図を確認すると、そこはもう人間の国の領地ではない。誰も統治しない、荒れた土地の一部だ。この森がまた広いのだが、その森を抜ければもうすぐそこに獣族の国がある。2日目にして高大な草原を抜けられそうなことに、ラフティは安堵の息を漏らした。
 獣族の国まで、どれくらいの日数がかかるのかは想像が出来ずにいた。世界地図は大まかなもので、正確な距離を測ることは難しかった。だから実際に移動しながら大体の距離を理解して進もうと思っていたが、この分だとラフティが思っていたよりも早く獣族の国に着けるかもしれない。地図にあるこの高大な草原が2日で渡れる距離なら、この森は5日もあれば抜けられるという計算だ。
「案外、早く父さんを見つけられるかもな」
 旅の目途が立った嬉しさから、ラフティの足取りが軽くなる。森の入り口まで一気に走り、点々と生える木々を見上げた。辺りはもう既に夜の気配を連れて来ていた。
「森の中は危険だって聞いてるし、今夜はここで野宿した方がいいのかな……」
 迷って、逸る気持ちを抑える。ラフティは近くにあったちょうどいい大きさの石にドカッと腰を下ろした。今日はこれ以上、進まない。その決意を失わない為、大きく息を吐く。荷物を漁り、蒸かしたイモの袋を取り出した。
 残りのイモはあと3つ。今2つ食べて、明日の朝にもう1つを食べれば、それで終わりだ。森へ入れば木の実があるだろう。川があれば魚を獲ろう。森の獣は鳥ならばさばくことが出来る。ソヌル村で暮らしていた時に母親からやり方を教わっていた。
「よし、きっと何とかなる」
 持ってきたイモも水も底を尽きかけていたが、不安がっていても仕方がない。ラフティは初めて入る森の中に恵みがあることを願って頼るしかなかった。


「……川だ!」
 遠くに水の音を感じて、ラフティの心が跳ねる。森に入って2日目のことだ。もう丸一日近く、飲み物を口にしていないラフティは、それでも逸る心を落ち着け、黒い毛の生えた耳を水音に澄まして慎重に脚を進めた。
 この2日間、出来るだけ先に進む事を考えたラフティは、ごく少量の食べ物しか口にしていなかった。森の中なら木の実がたくさんあるだろうと思っていた矢先、意外と木の実がなかったことと、あっても初めて見る果物で食べてもいいものか悩ましかったためだ。ソヌル村でよく食べていた物よりも3倍はありそうなほど大きなリンゴや、葉っぱは同じなのに実が遙かに小さいブドウなどなど。毒があったら困ると思い、食べるなら茹でてからにしようなどと考えているうちに食べるのを諦めてしまっていた。
 しかし森の中は意外と歩きやすい。木々がそこまで密集していないことと、土地が平坦なのであまり体力を奪われない。木々の間は雑草だらけなのかと思いきやそうでもなく、落ち葉の絨毯が熊の足には心地良かった。むしろ数日前まで歩いていた草原よりも歩きやすい程だ。
 音を頼りに川辺までやってくる。向こう岸までは人ひとりの身長くらいはありそうな程の川だ。幸いなことに水は無色透明に澄んでいた。
「よかった、きれいな水だ。これで飲み水が確保できる」
 少し時間がかかってしまうが、ラフティは生水を摂ることを避けるため湯冷ましをつくる準備にとりかかる。小さめの鍋と包丁、火をつける道具を持参している。あとは燃やすための木の枝を集めればすぐに作業に取り掛かる事ができた。
 湯冷ましを作る前に、先に果物を茹でてみようと思い至り、ラフティは道中で手に入れた大きなリンゴを鞄から取り出す。そのままでは茹でるのに時間がかかるので、包丁で4つに切り分けた。
「う……美味しくない」
 茹でた大きなリンゴはボクボクした食感で、とても美味しいとは言えなかった。しかし味は旨い。せっかく作った矢先、捨ててしまうのももったいないと思い、無理にでも食べる。食べ物がないよりはあった方がいい。ラフティはまた後で道中に食べようと、持っている全ての木の実を茹でた。
 湯を沸かしある程度冷めるまで待つ。ぬるま湯程度の熱さになれば水筒に入れてもいいだろう。そうして準備を済ませ飲み水を確保し、ラフティは再び歩き出す。
水深の浅い川でよかった。この川を渡らないと先へ進めないと思い、ラフティは水へ足をつける。すると少し離れた水面で、魚が跳ねた。
「そっか、魚だ。木の実よりも魚の方が食べやすいかも!」
 魚なら焼けばすぐに食べられる。ラフティは一旦荷物を川辺に置き、川の流れの中央へやってきた。膝丈まで浸かる程度の水深で、澄んだ水に魚が見つけやすかった。
 水に流されないようにしながら、脚を動かさないよう、魚が逃げないよう、じっと待つ。近くに魚が来た時を見計らい、ばっと水面に手を入れる。しかしなかなか魚を捕まえることはできなかった。
「おかしいな、熊は魚を獲るのが得意なはずなのに」
 何かで見た知識を思い出しながら、自分も熊なのに、と思う。しかし道具を使わずに魚を獲るのは初めての経験だった。
 何時間、川の魚と格闘したかわからない。何度も失敗するうちに、手の爪をうまく利用しようと思い至る。長い爪で魚を刺したら捕まえられるかもしれない。しかしその考えは失敗だと、少しして悟る。ラフティの爪の瞬発力よりも水の抵抗が勝っていた。
「はあ、難しいんだな、魚を獲るって」
 諦めかけた時、ふと足元の水の中に大きめの魚が泳いでいるのが目に入る。ラフティは諦めず、水面に手を入れた。すると初めて魚に触れることができた。しかもその魚はラフティの爪に弾かれて空中を舞う。なすすべなく、魚は川辺の土の上に落ちた。
「と、獲れたー! やったあ!」
 ジャバジャバと水から上がり、ラフティは土の上で跳ねる魚に手を伸ばす。
「あっ、ああっ、暴れるなって」
 生きた魚を上手く持てず慌てるも、大人の人間の二の腕くらいはありそうな大きさの魚に興奮を隠せない。ラフティは魚が水に戻らないよう、更には土まみれになってしまわないよう、川から少し離れた場所に布を敷いてそこに魚を置いた。
 それからラフティは再び水に入る。ここでかなり長い時間を費やしてしまったのもあり、今日は先へ進まないことにして、もっと沢山の魚、食料を獲ろうと考えた。魚の獲り方は何となく分かってきた気がしていた。
 陽が落ちて辺りが完全に暗くなる前にラフティは水から上がる。完全に暗くなってしまうと、森の中では危険だった。この2日間で学んだ夜の過ごし方は、暗くなる前に火を起こす事だ。
 夜の森は想像していたよりもずっと危ないとラフティは思った。火を起こさなければ明かりがない。熊のラフティならば人間よりは夜目が利くが、暗闇で動くことにあまり慣れていないラフティには過ごしにくい環境といえる。森の中には危険なものがたくさんあった。野獣や毒虫といったそれらは、人間の国で暮らし慣れているラフティにとって恐怖そのものだ。
 川辺で火を起こし、その場で野宿する準備にとりかかるラフティ。夜の間中、火を絶やさないよう、沢山の木の枝を拾ってきた。ついでに魚を焼くのに使う為の、細長い木の枝も探していた。ラフティがこの日獲った魚は、両手で数えられる数をゆうに超えていた。コツがわかれば、ラフティにとって魚を獲る行為は簡単だった。
「これだけ獲ったんだ、今夜はお腹いっぱい食べてもいいよね」
 自分で獲った魚が嬉しくて、ラフティは嬉々として魚に棒を刺していく。獲った魚を全て焼いてしまおうと思っていた。新鮮なうちに調理して、解していつでも食べられる状態にしておいた方が効率がいいと考えたのだ。
 魚に刺した棒の端を火の側の地面に刺し、炙り焼く。十分に火を通すと、ラフティは焼いた魚の骨とはらわたを包丁を使って取り除いていく。この遣り方は幼い頃から母親に教わっていた。
 魚の身の部分だけ残し、あとはその辺の地面に捨てる。近くの木から大きな葉を取り、少量の湯冷ましでその葉を洗うと、ラフティは魚の身をその葉でくるんだ。今夜と朝に食べる分はそのままにして、残りは葉にくるんで持ち歩き、明日以降に食べようと思ったのだ。
「魚がこれだけあれば、さっき茹でたリンゴはもういらないかな」
 あまり美味しいとは言えないそれをラフティは地面に放る。しかし大きなリンゴは食べてみて毒はなさそうだと判断できた。もし今後、木にリンゴが成っていたら、茹でずに食べてみてもいいかもしれないと思った。
 その時、向こうの茂みで何かが動く音がする。風で木々が揺れる音に比べると、不規則なものだった。
「……獣かな?」
 あの茂みに隠れられる程度の大きさなら、そこまで大きな獣ではないだろう。しかも大きな熊の格好をしているラフティに、小動物はあまり近づいて来ないと思われた。
 ラフティが真っ先に思ったのは、小動物なら捕獲して食糧に出来ないか、ということだ。しかし今は焼いた魚を沢山拵えたので、さほど必要とも思えない。小さな動物ならそっとしておこうと思った。
 しばらく様子を窺っていると、茂みの方から聞こえていた何かが動く音は聞こえなくなる。安堵の息を少し漏らして、ラフティは改めて拵えた焼き魚を前に、目を輝かせた。
「すごいな、こんなご馳走、旅を始めて初めてだ」
 あっという間に今夜の分を食べてしまった。村で母親と暮らしていた時なら、こんなにお腹いっぱいになるまでは食べられなかった。女の片親ということもあり、ラフティの家は他と比べて貧しかったからだ。母親はいつも気にしてくれていたが、物心ついてからはラフティが自らお腹いっぱい食べるのを躊躇していた。
「明日は沢山歩くぞ。いっぱい休まないと」
 お腹が膨れて眠気が増してくると、ラフティは落ち葉の絨毯の上にゴロンと横になる。火が大きすぎないことを確認し、焚き火はそのままにして目を閉じた。


 朝になろうかという頃、まだ辺りが薄暗い時にラフティは目を覚ます。空気はひんやりとして、熊の肌にも少し寒く感じられた。
「……あ、焚き火が消えかけてる」
 しかし焚き火の明かりがなくても辺りが見渡せるくらいは明るい。もう火を消してもいいと思い、ラフティは鍋を使い川からくんできた水を焚き火にかける。旅を始めて、火の始末をきちんとすることは忘れず行っていた。
 旅を続けるにあたり、食料と飲料水の量を改めて確認する。ゆうべ拵えた分がしっかり残っていた。ラフティはそれを鞄に仕舞い、立ち上がる。今日の旅の始まりだ。
 歩き始めて、辺りが完全に明るくなってくると、鳥の鳴き声が絶え間なく聞こえてくる。村でも見かけた野鳥、初めて聴く鳴き声、大きな鳥であろうことがわかる厳つい鳴き声……。森の中の音は少しだけ怖いとラフティは思った。
 それからというもの、何日間、森の中を歩いたかもう分からない。ラフティは少なくとも20日間は真っ直ぐ、地図上でいう下を目指して歩き続けていた。
「おかしいなあ……。この森、どこまで続くんだ……」
 当初の、この森は5日で超えられるという計算は間違いだったのか、木々の間から見える月は満月に近い丸い形をしていた。
 しかしここで諦めるわけにはいかない。母親を見捨てて来てしまった今、今更帰る場所などラフティにはないのだ。先が見えなくても進む以外の道がわからなかった。
「行こう。悩んだってしょうがない」
 強気でいられる間は前に進もうとラフティは思う。正直そろそろ心が折れそうではあったが、自分を律してそれを切りぬける。
 願いは1つ。この森を早く抜けて、獣の国へたどり着きたい。
 ここ数十日を森で旅して、ラフティの行動時間は大きく変わっていた。昼間に寝て夜に歩く、その方が森の中では安全だということに気付いたのだ。夜行性の獣が夜は森の中をうろつく。そんな獣たちから身を守る術として、木に登ることも覚えた。幸い熊の身体に木登りは容易い。
 夜の月明かりの中、ラフティはただ歩き続けた。同じ場所を歩いているような感覚はないので、しっかり「下」を目指して進んでいる自覚はある。たまに昼間に起きて、太陽の位置と方角を確認していた。
 それから更に10日ほどの時が経った頃、ラフティはようやく森の出口を見つけることができた。


「ここが、ここが獣族の国……?」
 街か村かはわからないが、ここに来るまでに門のようなものは特になく、広大な草原の中に唐突に藁か何かで造られた粗末な「家」らしきものが見える。壁も天井も藁で作られた小さめの小屋だ。数十メートル置きに点在するそれらから、獣……おそらく獣族であろう人達が出入りしていた。
 熊の姿で二足歩行のまま、ラフティはそっとその家々の間を歩く。
「大きなネズミ……。大きなウサギもいる。あっ、ライオンもいる。立派なタテガミだなあ」
 ネズミやウサギは大きいといってもラフティよりふた回りは小さい。それでもラフティが見慣れている野生のネズミやウサギに比べたら何倍もするほど大きい。
 ヤギとライオンが親しそうに一緒にいる。草食動物と肉食動物の共存は、なんだか不思議な光景だった。見るもの全てが新鮮で、ラフティはじろじろとそれらを見つめていた。
「ガウ、グルル……」
「え?」
 ふと、獣……猪がラフティの傍らに立ち、唸ってきた。ラフティの目線よりかなり低い位置からにらんでくるその姿に少し恐縮しながらも、ラフティはこの人も獣族だと思った。
 何か悪いことをしてしまったのかと心配になり、慌てる。
「……あっ、すみません、えっと……」
「グルル、グル?」
「え……?」
 その猪の反応から、どうやら怒ってはいないことを悟り、内心で安堵する。しかし猪の言葉はラフティには分からず、途方にくれた。
「ガウガウ、グルルルル……!」
 ふと、猪が周りの獣族に大声で話しかける。途端に、ラフティはその場にいた獣族に囲まれてしまった。
「チュン、チュチュン」
「ヒヒーン、ブルブルブル」
「ガウ、ガウガウ」
 鳥や馬などの格好をした獣族たちは口々に何か喋りながらクンクンと匂いを嗅いでくるが、ラフティには彼らが何をしたいのか、何を言っているのか、さっぱりわからない。かといって自分の言葉が相手に通じるとも思えなかった。ラフティは失念していたのだ、言葉の壁があることを。
「あの、僕はラフティといいます。半獣です」
 言葉は通じなくても心は通じると信じたい。ラフティはそれでも彼らに話しかけた。
「僕は父親を探しています。僕のような熊の格好をした獣族を知りませんか?」
「ガーウ、グルル……」
「グルルル、ウウウ」
「あの、誰か、言葉のわかるひとは……?」
「ウウウ……」
「あの……」
「ガウ、ガウウ」
 最初に話しかけてきた猪が、ラフティの肩をぽんと軽く叩いた。初めはラフティに興味を持って集まってきた獣族は、徐々に興味を失ったようにラフティから離れていく。終まいには、この広い土地でラフティはまた独りぼっちになっていた。
「あの……誰か……」
 ラフティの声を聞こうとする獣族は既にいなかった。
 その日の夜、ラフティは野宿をした。火を起こし、持っていた食料を少しだけ食べる。ラフティにとってそれはもう日常で手慣れたものだ。食料をお腹いっぱいに食べなかった理由は、念のための予防だった。言葉の通じない土地で、周りにはたくさんの獣族がいるのに誰も助けようとはしてくれない。そんな現実に、ラフティは嫌な予感を覚えていた。
 人間の国では、何を欲するにも金銭を必要とした。だから家を出る時、その時の自分にできた最大量の金銭を持ち出した。だけどそれは少量の小銭で、簡単には使えない。しかも言葉が通じないこの土地で、人間の国の小銭が役に立つかは疑問だ。
「この獣族の国に、宿ってあるのかな?」
 街と言っていいのかわからないが、獣族の家々が点々とはいえたくさんあるこの場所に、宿ととれるような建物らしきものはラフティには確認できなかった。人間の国の家や建物と、獣族の国の家は見るからに違っている。主に藁や草のようなもので作られた獣族の家は、ラフティにとって「家」という感覚ではない。
「はあ……父親なんて本当に見つけられるのかな……」
 先行きの不安を拭うこともできず、それでもラフティは前に進むしかないという決意のもと、草むらの地面に横になった。

    第二章 おわり


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