見出し画像

ヨーグルトと新雪。

寒さが染み入る2月が過ぎ、3月、4月…とだんだん暖かくなってくると、ヨーグルトが食べたくなる。
私にとって、ヨーグルトは初めての哲学だ。


小学生の頃から、絶対これ!と決まっている食べ方がある。

紙パックに入っているヨーグルトは、少しのホエーを浮かせて固まっている。
なるべく大きく取りたいので、家にあるいちばん大きなスプーンを使う。
白い塊を崩さないように、そっとすくって盛り付ける。
好きだなだけ器に盛り付けたら、付属の白い砂糖を表面にたっぷりかける。

そして、砂糖の層やヨーグルトを、なるべくそのままの形で、食べるのだ。

塊に見えるヨーグルトは、口に入れた瞬間とろりと解ける。
上の砂糖がかかっている部分はやさしく甘いが、舌に乗っている部分は砂糖がないので少しだけ酸っぱい。
口の中で酸っぱさと甘さが混ざり合って、ちょうど良い味わいになる。

この食べ方は、大好きだった砂糖がなくなった今でも続いている。


なぜこのような自分なりの決まりごとができたのか、今でも鮮明に覚えている。

小学生の頃、「自分で好きなだけよそっていいよ」と母親に言われた。
初めてのことにわくわくとしながら、冷蔵庫の扉を開けて、ヨーグルトを取り出す。

カップを外し、紙の蓋をあけた瞬間に見える白い塊。
まっ平らで、真っ白。
まるで雪に足跡を残すのが惜しいような気持ちになった。

崩してしまうのがもったいないほどきれい。

だから、開けたばかりのヨーグルトの世界観を崩さないように、器に移すことに執念を燃やした。


幼い頃は、紙パックに残ったヨーグルトが混ぜられていて泣き叫んだりもした。
親は癇癪を起す私の話を聞いて、いいと思える方法を自分で考えられて良かったねと喜んだ。
それを聞いて、私はこの方法がとっても大切なものに思えた。


幼い頃から続く、ヨーグルトの食べ方は、自分の美学に基づいたものだった。

私なりの、初めての哲学だった。


家族で時々雪を観に行く。

まっさらな雪を見ると、思わず物思いに耽ってしまう。

崩してしまうのがもったいないほどきれい。

ヨーグルトのようにその美しさのまま手元に置けないかしら、と。






ありがとうございます。