早尾貴紀「ガザ地区の崩壊のプロセスを遡る」

ガザ地区の崩壊のプロセスを遡る

(『市民の意見200号』2023年12月1日=市民の意見30の会・東京発行に掲載されたものを許可を得て転載しています。)

                     早尾貴紀(東京経済大学)

はじめに

 10月7日にガザ地区のパレスチナの武装勢力連合がイスラエル領に向けて一斉攻撃をした。数千発のロケット弾の発射と、ガザ地区を包囲する壁・フェンス・検問所を突破しての陸上進撃。ガザ地区周辺イスラエルの軍事基地が一時期制圧され、またユダヤ人の入植村(キブツ)および野外音楽祭の会場が攻撃され、1000人以上の死者が出た。これは1973年の第4次中東戦争以来の50年で最大の被害であり、しかもシリアやエジプトの正規軍との戦争ではなく占領下の抵抗組織による攻撃の被害としては過去に類例がない。

 対してイスラエル軍は武装勢力を即座に制圧するとともに、ガザ地区を「報復」と称して絨毯爆撃、そして「ハマースの拠点を壊滅させる」と称して陸上侵攻を進めている。実に11月半ばまでで実にパレスチナ人1万2000人以上を殺害し、数万人を負傷させて、なおイスラエルは攻撃の手を緩めていない。「イスラエル・ハマース戦争」とメディアでは称されるが、〈10・7〉の攻撃以外は、ほぼ一方的なイスラエル軍によるガザ地区への攻撃・侵攻であり、ほとんどの死傷者がガザ地区の一般住民であるという点で、「戦争」という言葉は現実を表しておらず、「大虐殺」「ジェノサイド」という表現がふさわしい。

 世界各地では、「テロの犠牲者」「自衛権の行使」としてイスラエル支持を欧米諸国(日本も含めてG7)が表明する一方で、その欧米諸国内でもパレスチナ支持ないし停戦を呼びかける市民の大規模デモが続き、またアジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国では政府レベルでも広くイスラエル批判がなされている。日本では「国際社会」への同調がそのまま欧米政権の崇拝なため、「ハマースはテロ組織であり先に攻撃を仕掛けてきたハマースが悪い」という論調が主流のメディアと世論を覆っているが、しかし世界的に見ても、国連総会では圧倒的多数で停戦決議案が可決されたように、実はイスラエル支持はG7に限って突出しているのが実情だ。

1 すでにガザ地区は封鎖され極限状況にあった

 ところで、10月7日に起きたガザ地区の武装組織連合による攻撃が、その規模の予想外の大きさとイスラエル側への進撃という手法で世界を驚かせはしたが、しかしこれを「始まり」として見ることは大きな間違いである。それではイスラエルのガザ地区攻撃を「報復」や「対テロ戦争」や「ハマース掃討」という名目で正当化することになってしまう。〈10・7〉を歴史の文脈に位置づけることが必要だ。

 とはいえ、歴史的始点を一つに定めることはできないし、またずっと過去からの関連や影響を辿ることは記述が膨大になりすぎてしまう。ここではむしろ逆に、直近の出来事から少しずつ過去に遡ることにしよう。

 マスメディアでは「ガザ地区を実効支配するイスラーム原理主義組織ハマース」と枕詞を付けて称するのが一般的になっているが、まずはこの表現が大いなる偏見である。ハマースは原理主義組織ではないし、イスラーム政党だから支持を得たのでもない。ハマースは、「オスロ体制」と言われる1993年以来の国際的な和平の枠組みの欺瞞を批判することでパレスチナの民衆的支持を得て2006年のパレスチナ議会選挙で勝利し(ヨルダン川西岸地区でもガザ地区でも)、単独過半数の与党としてパレスチナ自治政府の政権を委ねられたのだ。すなわち、ハマースは唯一の選挙的正統性を得た政権なのである。

 ところが、イスラエルと欧米と日本とは、「オスロ和平を否定するハマース政権は容認できない」としてボイコット。選挙で敗北したパレスチナ解放機構(PLO)の主流派ファタハに引き続き自治政府を担当させるべく、イスラエルと米国とがファタハに武器と弾薬まで供与してハマースと内戦を引き起こさせつつ、イスラエル軍・治安警察は西岸地区のハマースの議員と幹部を一網打尽に逮捕してハマースを無力化し、西岸地区をファタハ支配のもとに置いた。すなわち、「西岸地区を武力クーデタによって実効支配するファタハ(PLO)」というのが実情なのだ。

 対してハマースは主要メンバーが西岸地区からガザ地区に「流刑地」よろしく追放され、ガザ地区だけで政権を維持、2007年に内戦はひと段落した。ここからイスラエルによるガザ地区の封鎖と軍事攻撃が始まる。2008-09年にかけて、2012年、2014年、2021年と大規模なガザ地区空爆と陸上侵攻とが繰り返された。発電所や浄水場や通信施設などのインフラが破壊され、住宅・学校・病院・商店も意図的に標的にされ、食糧支援などの物資の搬入さえも封鎖によって締め付けられた。まともな市民生活など送れないどころか、もはや生存基盤そのものが脅かされていたのだ。世界はそのことを深刻なものとして受け止めなかったが、ガザ地区はとっくに「極限状況」を迎えていた。

 選挙的正統性を持ったハマースが政治対話を拒否されまま(つまり投票したパレスチナ人の民意が踏みにじられたまま)、封鎖と攻撃に晒され続けた18年間があり、地域的にも組織的にも個人的にも何ら展望がないし、ガザ地区を脱出することもできない。私の目には、ガザ地区からはいつ何が起きても不思議ではないと映っていた。むしろ、このままの状態が維持されると考えることのほうに無理がある。それは支配者側に都合のいい思い込みだ。

2 争点としてのオスロ和平体制

 だが、ハマースはなぜに国際的な合意であるオスロ和平体制を批判したのだろうか。なぜにそれが支持されたのだろうか。オスロは「二国家分離解決」すなわちパレスチナ国家を西岸地区とガザ地区で独立させる約束だというのに。

 ポイントは、オスロ合意やそれに基づく諸協定に、独立国家となるための要件がまったく含まれていないことだ。それは主に5点。ユダヤ人入植地の撤去、東エルサレムの返還、国境管理権の移譲、水利権の返還、難民帰還権の承認、であるが、すべてが「将来的な議題」として先送りされたまま、ただPLOがイスラエル国家を承認することと、PLOをパレスチナ自治政府とすることだけが決められた。そしてイスラエルはパレスチナ「自治」を盾に、あたかも占領が終わったかのように自らの負担や責任を免れつつ、国際社会の援助によってパレスチナ支援を賄わせたのだ。すなわち、占領問題が政治アジェンダから外されて隠蔽され、「人道支援」という課題へとすり替えられたと言える。

 もっとも明白な例は、1993年のオスロ合意が入植活動を制限するものではなかったため、「和平プロセス」とされる期間でもユダヤ人入植地は増えつづけ、単純に93年時点から2000年の第二次インティファーダ時点で入植者数は2倍になっていた。入植地が建設されるということは、占領地の土地が収奪されるだけでなく、イスラエルと入植地および入植地どうしを結ぶ専用道路ができて、さらに土地収奪が進むと同時にパレスチナ人の町どうしは分断されてしまう、ということになる。入植者のための学校や工場や商業施設、入植地を「守る」ための軍事基地、軍事演習場も付随して増えていくし、すべてが土地の収奪と分断を生み出す。

 こうして占領の構造は深められていくなかで、イスラエルと相互承認したPLOの自治政府は、細分化された一部の町・村の占領地行政だけを請け負う存在に成り下がり、その財政は援助漬け(それには日本の税金も含まれる)となり腐敗していった。オスロ体制下で、PLOの周辺は潤うが、土地を奪われた人びとはますます困窮するという矛盾。その矛盾が、2000年に第二次インティファーダとして反オスロの民衆抵抗運動となり、それゆえにオスロの欺瞞を指摘したハマースに支持が集まった。ハマース政権は、入植地のない一体化した土地で、東エルサレムを首都とした、完全な独立国家を公然と要求したのだが、しかしそうだからこそ、ハマース政権の存在をイスラエルと欧米日は一切認めなかったのだ。

 したがって、ハマース台頭も、そしてガザ地区弾圧も、その直接的原因は、オスロ体制にあるのだ。

3 占領から抵抗へ、そして抵抗の押さえ込みへ

 では、なぜ1993年にそのような不平等で占領状況を悪化させるオスロ合意が結ばれたのか。これはイスラエルが1967年の第三次中東戦争でヨルダン川西岸地区とガザ地区とを軍事占領下に収め、この占領地をどのようにイスラエルに従属させつつ、最終的にイスラエル領としていくのか、というイスラエルの戦略的判断に尽きる。

 イスラエルの占領下で西岸・ガザの両地区は、ヨルダンやエジプトから切り離されたうえに、独自の産業発展・経済活動は阻害され、パレスチナ人はイスラエル領内への出稼ぎ労働をするか、湾岸産油国への出稼ぎ労働をするか、という状況に追い込まれた。イスラエルでの安価な肉体労働で得た賃金は、イスラエル経済に組み込まれた流通のなかで購買に充てられ、イスラエルに還流するという仕組みだ。また湾岸での出稼ぎ者は占領地へと仕送り送金をしていった。自立した政治経済が欠落させられているあいだにも、着々とユダヤ人入植地が建設されていき、既成事実としてのイスラエル領化が進められ、たんなる軍事占領ではなく土地の「乗っ取り」の画策であることが露呈していった。

 イスラエルが安価なパレスチナ人労働者に依存し、パレスチナ人が現金収入をイスラエルでの出稼ぎ労働に依存するという、共依存状態はかりそめの安定を生み出したかのように見え、イスラエル人はこの期間を「蜜月」とまで呼んだが、しかしそれは占領者の一方的な眼差しであり、まったく非対称的な支配・従属関係のなかでパレスチナ人の受ける日常的な差別と屈辱の蓄積は、20年間を経て1987年の第一次インティファーダ(民衆抵抗)へと展開されていく。この抵抗は組織的かつ長期的な広がりを見せ、イスラエルはもはや従来の占領方式へは戻れないと判断し、そこで発明されたのがオスロ体制だと言える。すなわち、パレスチナに「自治」の名前を与えることでイスラエルは占領責任を免れながら、国際社会に自治政府を援助させるが、入植による土地の収奪や人・物の移動の制限などはむしろ強化していく、という巧妙な方法だ。

 このときPLOとパレスチナ人はたんに騙されたのではない。1990年のイラクによるクウェート侵攻で生じた湾岸危機で、イラクのサダム・フセイン大統領がクウェート撤退とイスラエルの占領地からの撤退とをリンクさせた主張を、PLOのヤーセル・アラファート議長が支持したために、湾岸諸国の怒りを買い、PLOへの援助金を切られ、パレスチナ人の出稼ぎ労働も禁止されたために、パレスチナは苦境に陥っていたのだ。困窮したPLOには、オスロ合意を拒否する余力はもはやなかった。

4 「1948年占領地」と難民とガザ地区

 第三次中東戦争でイスラエルに占領された西岸・ガザの両地区は、「67年占領地」とも言う。この言い方には、その対概念として「48年占領地」がある。それは1948年に建国されたイスラエル国家の領土のことを指すのだが、そこには、パレスチナの土地が不当に奪われた結果としてイスラエルがあるのであり、そこもまた「占領地」である、占領された時期が67年なのか48年なのかという違いでしかない、ということが含意されている。

 その「48年占領地」は、国連パレスチナ分割決議を梃子として、組織的・計画的な民族浄化政策によって、パレスチナの80パーセントの土地を獲得する目標のもとその地に住む先住パレスチナ人を暴力的に追放することで手に入れられたものだ。小さなガザ地区とパレスチナ難民はこのときに発生し、ガザ地区はほとんどの住民が難民であるという歪な状況が生まれたのはこのときだ。それゆえガザ地区住民において「48年占領地」への正当な帰還権を求めた抵抗運動が根強いのは当然のことである。

 他方イスラエルからすれば、第一次大戦後にオスマン帝国領から英国が手にした英領パレスチナの「全域」がユダヤ人国家になるべきこと、およびその全住民がユダヤ人であるべきことは、究極的な理想である。それは建国前のシオニズム運動のなかで共有された理想であり、80%の土地で建国したこととその人口のうちユダヤ人が80%であることは「一段階」に過ぎないことになる。67年占領地に入植していったことは、パレスチナの80%の領土を100%にしていく過程であり、またそこにいるパレスチナ人口を限りなく0%に近づけることも理想を実現するための必要条件である。

おわりに

 遡ってきた歴史から現在に戻ろう。いまガザ地区で進められているのは、ジェノサイドで脅迫しつつ、インフラと住宅や病院・学校・国連施設を意図的に破壊することで、大規模な避難者の人道危機を作り出すことである。人道支援の名の下で、国際社会がガザ地区住民を地区外へと避難させる方向へとイスラエルの軍事作戦は遂行されている。それは、48年、67年、93年、2007年と段階を経て、手法を更新しながら着実に進められてきた。ガザ地区は消滅の危機にある。だがそれは、イスラエルにとっては、西岸地区も含めた100%のパレスチナを獲得するための手段に過ぎない。〈10・7〉蜂起は、それに対するガザ住民の最後の抵抗と言える。日本も含めた国際社会は、イスラエルによるパレスチナ抹消を容認しその共犯になるのか、あるいはそれを転換し、パレスチナにおける正義を希求する方向へ向かうのか、〈10・7〉はそのことを私たちに問うている。

初出:https://www.iken30.jp/wp/wp-content/uploads/2023/12/cda4f1d189b3a6c52bc9435909aa66fa.pdf

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