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徒然日記2021.3.13

最近の愛読書となっている、『井筒俊彦英文著作翻訳コレクション 東洋哲学の構造 エラノス会議講演集』(慶應義塾大学出版会)から、私の大好きな華厳を解説している章、「11 存在論的な事象の連鎖─仏教の存在観」から引用させていただく。

 絶対的な無執着の目で、(聖人は)〈道〉の神秘なる真実を見る(絶対的に非限定を望む)。執着の目で、彼は〈道〉の限定されたかたちを見る。
業と煩悩が滅びることによって、人は解脱の状態に到達する。
業と煩悩は分別から起こる。
全ての分別は戯論にもとづく。
戯論は空(の理解)によってのみ滅びる。
「空」はその限定的な構造において、それを「不空」へ転換させるような肯定的な側面をもっているのです。その特別な側面において、「空」は全ての存在論的な潜在性の形而上的な貯蔵所、すなわち存在の究極的な充実、としてイメージすることができます。(中略)「空」それ自体は、絶対的一であり無分節でありながら、その内に無限の現象形態へと自己展開していく存在論的可能性を包含しております。それは私たちに、老子が『老子道徳経』で言っている宇宙的な「槖籥(ふいご)」をも想起させます。すなわち、「それはからっぽでありながら、尽きることがない。動けば動くほど、ものが出てくる」のです。限りなく果てしなく現象する事物が「シューンヤター」という底知れぬ「空」から、それと同数の自己限定として生起してくる。それはあたかも典型的に老子の述語を援用しますと、「万物の祖先」であるかのようだ、というのです。「如来蔵」とは、こうした肯定的で常に創造的な「不空」の側面で見られる「空」以外の何ものでもありません。さらに付け加えて銘記すべきことは、「空」としての「不空」が開示される現象的・存在論的な形態が、厳密に言って、前述した全ての事物の「縁起」であるということです。
四つの「法界」について簡潔に説明します。

(1) 第一は、感覚的な事物(事)の法界です。これはいまだ深層意識が拓かれておらず、そのために、事物の深層構造を覗き見ることができない、ふだんの人々の日常的な世界観を表現しています。ここで機能している表層意識は、ただ経験的あるいは現象的な多様性の世界だけを認知しています。そうした世界では、全ての存在論的な諸単位は明らかに、はっきりと互いに識別され、それぞれが最後まで個別性や独自性を主張して、互いに対立しています。(中略)

(2) 前述した四法界のうち、第二の法界は絶対的な形而上的リアリティ(「理」)です。これは形而上的無分節の、全てに滲透し全てを包摂する一性であって、そこから全ての現象が生起してくる、リアリティの現象以前の根拠です。それが無分節であるということは、同時にその中には、絶対的に何も存在しないことを含意してます。すなわち、それは究極的な非現象的なリアリティの次元であり、その中で、全ての現象的な事物がそれらの本質的な区別を喪失して、一性あるいは無へと還元されるのです。明らかに華厳存在論の主要な原理としての「理」は、以前に説明した二つの根本的な側面、すなわち肯定的な側面と否定的な側面、および全てを無効にする側面と全てを創造する側面、における「空」以外の何ものでもありません。その否定的な側面において、「理」はいわゆる経験的な事物が「無─自我」「無─実体」あるいは「無─本質」であるという事実、要するに、全ての事物が究極的に無であるという事実の根拠となります。しかし、その肯定的な側面を見ると(そこではそれは仏性と同一ですが)、これら全ての無─自我あるいは無─実体の事物は無分節のリアリティが分節された形態であり、それ自体、実在としてみなされる正しい主張をしていることが分かります。また「理」のこうした肯定的な側面は、それが存在論的な原則として独立して考えられるとき、華厳存在論の体系において、第三の領域として澄観が分類したものの理解へと直接、私たちを導きます。

(3) 第三の法界は「理」と「事」の自由で無礙の相互浸透〔理事無礙〕の領域です。ちょうど申しましたように、仏性としての「空」は、この段階では、宇宙的なエネルギーの普遍的で境界なき広がりであると理解されます。それはそれ自体、絶対的に同質で無分節ですが、経験的な事物がそこから全て、その限定的な形態として生起するような仕方で、存在世界全体を創造し続けるのです。現象世界の生起はそういうことですが、独立の異なる(異なる、すなわち、存在論的に互いに別個の)存在として成立しているように見える個々の事物全てには、同じ「理」が同質的に滲透しているのです。言いかえますと、経験的世界における全ての異なる事物は、それらの各々(すなわち、あらゆる「事」)が一つの絶対的リアリティ(すなわち「理」)を全的に完全に具現化しているという点では、全く同じものなのです。
 私たちの経験的世界が絶え間ない変化と限りない区別の世界であることは明らかです。実際、何事も繰り返されることはありません。空間的に、この世界には「二つの同じもの」は存在しません。時間的には、一瞬たりとも、同じままであるものは存在しません。こうした意味において、世界は瞬間ごとに新しいのです。瞬間ごとに、あらゆるものは独特な存在論的「事象」なのです。しかし他方ですは、これらは全て異なる、絶えず変化する事物は、ただ一つ同じ「理」の異なる、絶えず変化する分節形態にすぎないのです。現象的多様性の世界において、「事物」として見ることができる全ての異なる形態に滲透している単一の「理」を実際に目撃する認知的な行為は、「理事無礙」という華厳の思想を支える基盤なのです。

(4) 四法界のうち、第四番目の最後の法界は、「事」と「事」の相互滲透〔事事無礙〕の法界です。「事」と「事」の相互滲透とは、経験の日常経験的次元において、あらゆるものがそれ以外のものへと相互に存在論的に滲透していることを意味します。事実、今や哲学者は、自分に変形した意識がそれらを全く変形したものとして見る以外は、出発したのと全く同じ場所、すなわち最初の法界である、「事」の世界、日常経験的な世界に再び戻ってまいります。以前には、最初の法界において、これらの事物の全ては暗くて不透明で、互いに礙げ合っていました。今や実質的な不透明さはなくなり、明るさと透明さがその場所を占めています。また宇宙的な光の普遍的な拡がりの中で、事物は自由に妨害されることなく、互いに融合し始めます。それゆえ、全存在世界は互いに滲透し合う光の複雑な織物のように見えます。
 「事」と「事」の相互滲透は、最も原初的で深遠な仕方で華厳哲学を特徴づけながら、華厳哲学によって到達される最高点を表現しています。華厳存在論の構造自体は、こうした考え方を踏まえて、法蔵によって構築されました。
法蔵によると、仏とか菩薩は、全てを見通す視野が事物の全ての「無力」な要素を「無力」な暗闇から明るみへともたらし、たった一つのものの見方で、それらをその「有力」な要素と並んで理解することができる人です。しかし、事物がこのように「有力」であれ「無力」であれ、全ての存在論的な構成要素で見られ、それが現実の開けた領野へもたらされると、それはもはや特定の個的な事物ではありません。つまり、それは世界全体なのです。と申しますのは、世界全体がその事物の中に現成しているからです。華厳哲学の立場から、そうした状態で見られるいかなる事物も、仏によって見られた事物であるばかりでなく、それ自体が仏であるということに気づくのも重要です。全ての存在論的な構成要素が「有力」になった状態で見られる花は、もはや花ではありません。それは世界です。それは仏なのです。こうした意味において、全ての事物は潜在的に仏であると言われ、また全ての事物─瞑想中のヨーガ行者だけでなく、世界全体における全ての事物も─は、永遠に深い三昧の状態にあると言われます。さらに、このことは全ての事物の相互滲透の考え方が導いてくれる最終的な言明です。

四法界については、わかったようでわからないレベルの認識だったものが、井筒俊彦の素晴らしい解説で少し理解に近づいた気がしている。私にとって、この〔事事無礙〕の精神性に近付くことがテーマとなっている。中沢新一の『レンマ学』(講談社)や、私の愛してやまない南方熊楠の精神性にこの〔事事無礙〕で観る世界がある。世界のあらゆる事物の中に仏性を見ていきたい。粘菌から世界を見たように、「空」でありながらあらゆるものが内包している一なるものを求めていきたい。そうしていくことによって、業と煩悩は滅び、世界は光り輝いて見えることだろう。

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