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徒然日記2021.4.26

今日は会社の仲の良い元上司から興味深い話を聞いた。私の母と同じように、末期がんで自宅で最後を迎えた親戚がおられたようで、最後の瞬間に立ち会った人の話を聞いたところによると、苦しみの表情からフッと楽な表情になり、間もなく臨終を迎えたという。

私は人が死ぬと、分かれていた「多」の世界から、悩みのない「一」の世界へと行くと感じている。

私の愛してやまない河合隼雄先生の一文はとても勇気づけられ、今でこそ輝いて思える。好きな部分を引用する。

母親が死ぬ。あの母親がなぜ今、世を去っていったのか。これに対して科学の知は心臓麻痺などと説明してくれる。(中略)しかし、本人の知りたいのは、「自分との関係のなかでの、母の死の意味」を知りたいのである。母の死を受け入れるためには、それに必要な「喪」の仕事が必要である。そこには「神話の知」が必要になってくる。現在の悲劇は、既成の宗教の提供する喪の儀式が、ある人にとっては、まったくその本来的な意味を失ってしまっている、ということである。各人が自ら「神話の知」を見出す努力をしなくてはならないのである。
母親を失った人が、たとえば「来世」という「神話の知」を信じるならば、その人と死んだ母との間に関係性が保持されることになる。

私は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を好きなのは、ジョバンニがカンパネルラと銀河の彼方まで同行したことである。ジョバンニは銀河の向こうにカンパネルラがいることを知っている。だからいじめっ子がいても大丈夫、カンパネルラと共にいるから、、、。

死者との関係性を持つこと。この意味を私は痛切に感じている。母は黄泉の国に旅立とうとしているけれども、私はそこに母がいることを知っている。だから、母がこれから亡くなっても関係は切れないと思っている。「そこに」とはどこだろう?
私は、私の心の中に母が生きていることをありありと感じている。母がこれから旅立つけれども、ずっと一緒にいる気持ちだ。

死ぬと異界に行くという。その異界は、無意識の世界や夢の世界と同様に、さまざまな死んだ人やこれから生まれる人の生命のエネルギー、魂ともいうべきものの根源を感じる。多の一、一の多、空、無、私は仏教の細かい論理はまだ勉強不足だけれど、生命が多様に分かれる前の原初の状態、受精卵や胚のイメージだが、その状態に還ると思っている。そこに全ての今まで生きて死んだ人やこれから生きる人、人だけではない、生きとし生けるもの全てがあると思っている。その感覚を知ると、死者との関係性は、見事に取り戻すのだ。

私もまたそこに行くので、母には待っていてね、とも思えるし、祖母や祖父とも会えるね、とも思える。普通の人が天国の話をする時に、どこかで天国なんてないと思ってはいないだろうか?私の生命の根源、原初の状態とは、人々が一般にイメージする、天国そのものではなかろうか。死者もこれから生まれる人も天国という名の「多の一」「一の多」の世界にいることを知っている。信じているのではない、知っていると感じている。

死者とつながる「神話の知」の重要性を感じるとともに、私の神話を語ってみた。神話を知るということは、どれだけ魂が救われることだろうか。母との臨終が迫るいま、改めてその智慧が輝いて、眩しすぎるほど光を放っている。

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