アラサーOLの内なる旅:バタイユ、安吾、そして道元との邂逅
こんにちは、さくらです。
過激な日々を送った後、ふと立ち寄った古本屋で出会ったのが、道元禅師の「正法眼蔵」でした。
この本との出会いが、私の人生をまた新たな方向へと導いていったんです。
月曜日:只管打坐との出会い
今日から、道元禅師の教えに従って、朝に坐禅を始めました。
「只管打坐」。ただひたすらに坐ること。
最初は落ち着かなくて、バタイユさんの「エロティシズム」のことを考えたり、
安吾さんの「堕落せよ」という言葉が頭をよぎったり。
でも、だんだん心が静まっていく。
「今、ここ」にただ在ることの深さを感じました。
バタイユさんの「内的体験」も、こういうことだったのかもしれない。
でも、それを求めるのではなく、ただ坐る。
不思議と、心が軽くなりました。
火曜日:日常の中の「現成公案」
今日は普通に会社に行きました。でも、なんだか世界が違って見える。
コピー機の音、同僚の話し声、窓の外の景色。
全てが「現成公案」。この瞬間に現れている真理。
安吾さんの言う「人間らしさ」も、案外こんなところにあるのかも。
バタイユさんの「至高性」を追い求めていた自分が、少し恥ずかしくなりました。
でも、それも含めて今の自分。
夕方、上司に「最近変わったね」と言われました。
「はい、只管打坐してます」と答えたら、不思議そうな顔をされました。
水曜日:「有時」の中で生きる
道元禅師の「有時」の概念について考えました。
全ての時が「有る」という考え。
過去も未来も、全て今この瞬間に存在している。
バタイユさんの「蕩尽」も、安吾さんの「堕落」も、全て今ここにある。
路上生活者の方々とまた話す機会がありました。
今度は「布施」として、おにぎりを持っていきました。
彼らの人生も、私の人生も、この瞬間に全てが詰まっている。
そう思うと、なんだか愛おしくなりました。
木曜日:「悟り」と「迷い」は不二
今日、電車で席を譲ろうとして断られ、少しモヤモヤしました。
その時、「悟りと迷いは別物ではない」という道元禅師の言葉を思い出しました。
バタイユさんの言う「エロティシズム」も、安吾さんの「堕落」も、
結局は「悟り」を求める別の形だったのかもしれない。
でも、求めるのではなく、今この瞬間をあるがままに生きる。
そう思ったら、モヤモヤが晴れていきました。
夜、久しぶりに家族に電話をしました。
「最近、元気?」という問いに、「ただ生きてます」と答えました。
金曜日:「以心伝心」の世界
今日の会議で、不思議な経験がありました。
言葉で説明しきれないアイデアが、なぜかみんなに伝わったんです。
道元禅師の「以心伝心」。言葉を超えたコミュニケーション。
バタイユさんの「融合」も、こういうことだったのかもしれません。
安吾さんも、きっと言葉の向こう側にある真実を見ていたんだろうな。
帰り道、街の雑踏の中で、なぜか涙が出てきました。
全てがつながっている感覚。でも、それを特別なことだとは思わない自分がいました。
土曜日:「行証」を生きる
今日は一日中、ただ日常を過ごすことに専念しました。
掃除、洗濯、料理。全てが「行証」。悟りを実践すること。
バタイユさんの「日常の聖化」も、こういうことだったのかも。
安吾さんの「人間を生きろ」という言葉も、新たな意味を持って響きます。
夜、ふと鏡を見たら、自分の顔が少し違って見えました。
柔らかな表情。でも、それを特別なことだとは思わない。
ただ、今の自分がそこにいるだけ。
日曜日:新たな「自己」との出会い
一ヶ月前の私からは想像もつかない日々を過ごしました。
バタイユさん、安吾さん、そして道元禅師。
三者三様の教えが、不思議と一つに融合していく感覚。
過激な行動も、内なる静けさも、全て自分の一部。
でも、それにとらわれない。
「自己」とは何か。それは絶えず変化し、そして変化しないもの。
矛盾しているようで、しっくりくる。
明日からまた、普通に会社に行きます。
でも、もう「普通」という言葉に縛られない。
ただ、目の前のことに全力を尽くす。
それが「只管打坐」であり、「堕落」であり、「エロティシズム」なのかもしれません。
さくらの「内なる旅の日記」はこれにて終了。
いや、終わりなんてない。
ただ、続いていくだけ。
バタイユさん、安吾さん、道元禅師。
ありがとう。そして、さようなら。
もう本は必要ありません。
生きること自体が、最高の教えなのですから。
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