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言葉の意味を解体するハナモゲラ

私にとって転機となるような素晴らしい本に出会った。今はプレミアム価格で定価800円の本を2万円で買った。しかし、この本で出会えたことは得難いものだ。

昔、母をデタラメの韓国語のモノマネで大笑いさせたことがあった。少し後に、タモリの「四ヶ国語麻雀」でハナモゲラという芸を知った。

タモリは言葉を使うことによって、本来のものから離れていくという感覚があったらしい。言語の解像度が低かった私は、日記を書くと、本来のものとは到底違うシロモノが出来上がってしまうことに違和感を感じることがあった。そもそも言葉の意味にしばられて、本来の純粋経験を表現し得ないと思っている。タモリも言葉を憎んだ。そして言葉を解体する、言葉の意味を解体して、言葉の発音やノンバーバルなモノマネで構築し直して、ハナモゲラと言われる芸を確立した。

タモリのハナモゲラがYouTubeで見られる。抱腹絶倒である。ぜひご覧あれ。

私が好む人々の本には、解像度の高い言葉を通して、言葉で表現する前の原初の状態を掴もうとする本が多かった。中沢新一が探究していることだったり、華厳の事事無礙、岩田慶治の道元、鈴木大拙の禅など、まさに言葉にならない世界、言語を通しては到底表現し得ないだろう世界。原初の言語を知る前のヒトの精神を探求するものではなかろうかと悟ったような気持ちなった。

普段生きていると、本当に言葉の意味に縛られて生きている。言語的な意味の染みついた物の見方を通して世界を見ている。坐禅をすると、言葉の意味の世界から離れられる。これも言語の意味を駆逐する一つの手段だったのだ!

タモリは言葉と対決して、言葉の意味を徹底的に駆逐することを芸にまで昇華した。若い時から、言葉が自分に悪さをしていることに気づいていたのがすごい。

実は私にも同じようなことをして意味の世界から離脱しようとする遊びを普段している。全くもって意味のない言葉を唐突に言うことがある。具体的には、ジーコ、ジーコ、ジーコ、ジコジャバオ!と言ってみたり、ムイントムイントプラゼールと言ってみたり、小さい頃ブラジルに住んでいたので、サッカーのスタージーコが好きなんだよとか、ポルトガル語が忘れられないんだよと説明しているが、あまりにも唐突に意味不明の言葉を語り出す私に、家族は始めは訝しがった。しかし、慣れてくると、また言ってるわ!というくらいにして、やり過ごしてくれる。

世界を見る時に、言語を通して見ることをやめてみる。その時に、事事無礙の世界が広がっているような気がしている。言語は文字通り分節されている。中沢新一も言うようにロゴスの世界は、分けて順番に並べる特性がある。レンマというまるごとガバッと把握する智慧は、無分別智と仏教では言われたようだが、言語では到達し得ない見方で、全てが事事無礙で繋がって見えるだろう。

そもそも言葉の意味に縛られているとはどういうことだろう。ここに椅子があるとする。そうするとああこれは椅子だなと思って、椅子としての使い方しかしない。椅子という言葉の意味に縛られていて、別用の可能性を捨象してしまっている。

一度、レンマの見方をしてみて、出会い直してみよう。椅子ではない、生身のその物質が目に入って、肌で感じる。そのものをマジマジと見る。そして、ヒョイとおもむろに持ち上げて4本の突起を相手に向けて突進して、壁に挟んで捕獲する。そしてゲラゲラと笑う。原始人が椅子という言葉を知る前にこの椅子に出会ったら、そうしたのかもしれない。

このように普通に言語に毒された現代人は言葉を解体して、レンマで見ようと思っても、言葉に毒されて、どうしても言語的に世界を見てしまう。想像力を働かせて、言語を使う前の原始人になったつもりで、言葉の意味を一旦忘れて、世界を見たい。そのときに、言葉では到底到達し得ない、素晴らしき世界が見えてくるのかもしれない。

それは端的に言うと、言葉の意味に拘束されていない世界とも言い換えることができる。普段使っている道具から、動物、ありとあらゆるものを、言葉の意味の呪縛から外して見てみる。そうすると別用の可能性に満ちた、言わば可能性の宝庫ともいえる世界が出現するのではなかろうか。

もう一つ言いたい。言葉で到達し得ない、レンマの世界は、常に動的に変化し続ける世界とも言える。それぞれが連関しながら、動的に変化していく世界を、言語から離れて、ガバッと丸ごと把握し続け、変化の機微を、言葉ではない知性、レンマ的知性で把握し得た時、もう一つの世界の真理に近づくのかもしれない。

今日はタモリに触発されて、いつもの私の好きな事事無礙の世界に行ってしまった。素人ながら、常に事事無礙に近づきたいと思う、小市民だが、お付き合いありがとうございました。

タモリ万歳!ハナモゲラ万歳!



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