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徒然日記2020.11.20
普通に生きていると自分という幻想にとらわれる。なにもかも自分が主語で物事を考えている。自分が過去にやったことを悔いたり、自分の未来を不安に思ったり、自分が他人にどう評価されているのか気にしたり。すべて、自分、自分、自分。ただそんな自分もいつかは死ぬ。死ぬと存在しなくなる。ということは、現在も存在しないのと同じではないか?生きているから自分という幻想にとらわれていて、自分は死んでも魂は生き続けると思っている。でも死ぬと存在しなくなるという事実がわかると、魂が生き続けるのは生きている人が作り出した幻想だとわかる。生きていると自分という幻想にとらわれているが、そんなものなど存在すらしないのかもしれない。ただ縁起の中で、生起して消滅する。この一連のツイートを読んで、色んなことを考えてしまった。やはり死んだら存在しなくなるのだろうが、沖縄の人がニライカナイと言った、生命の源のようなイメージはある。そこに帰ると思っている。そこに帰ったら、もはや自分ではないだろうな。やはり死ぬということは、消滅と捉えて差し支えないし、生きていると自分の幻想にとらわれている。
敷衍する。
— 金曜日の+M (@freakscafe) November 20, 2020
死ねば「私」が消えるなら、生きていても「私」は存在していない。
その場合「私」は相依的な現象でしかない。つまり「文脈」に還元できる。だが、生きるという実践において、「私」は超越的に存在する。
独在性とはこうした事況のことを指す。「私」が超越的に存在することを意味しない。
「私」が超越的に存在するとすれば、死によって、「私」は消えないことになる。そこに「死後の世界」のリアリティが生まれる。
— 金曜日の+M (@freakscafe) November 20, 2020
多くの人は、そのようなリアリティを生きている。
だが、「私」は超越的に存在するのではない。生きるという実践において超越性を要請されているに過ぎない。
このことを明晰に見切ったのが仏陀である。仏陀によれば、「私」は存在しない、一切は縁起において生起する。
— 金曜日の+M (@freakscafe) November 20, 2020
生きるとは、「必然的な超越性の誤謬」に落ちることである。この「不明」を、どう処するか。生きながらにして、「超越性の誤謬」をどのように無効化しうるのか。
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