力まないこと

オードリーの若林さんが好きだ。
元々お笑いが好き。フレッシュで野蛮でいつもストレートな霜降り明星さんや、毎日テレビで見て当然だなと思う、安心感のあるお笑いが印象的なかまいたちさんや千鳥さんが好きだ。
そして、オードリーさんの雰囲気がずっと好きだった。
なぜかわからなかったが初めて見た時から無意識に若林さんを目で追っていた。ひとつひとつの言葉遣いやイントネーション、そしてそのつかめない柔らかな靄がかったオーラに惹きつけられた。
恋や尊敬とはまた違う、同族意識や親近感はおこがましいが、私の持つ感覚の一片は若林さんの感覚と重なっていると思った。テレビの画面越しなのに指先でかすかに輪郭をなぞれている気がした。
そして、若林さんがかいたエッセイを読んで、改めてそう感じるのであった。
出会った物事に対して考えすぎてしまうこと。なんで考えすぎてしまうのかとまた頭を抱えること。いつも自分を俯瞰で見てしまうこと。周りを嘲笑って、同時に自分自身を傷つけてきたこと。人に否定されるのが怖くて必死に本音を隠し通してきたこと。
若林さんの言葉で語るその感覚は、私と同じグラデーションの上にあった。
そして若林さんはエッセイの中で、苦悩だけではなく、私がまだ到達できていない、年齢を重ねてからの心境の変化についても述べていた。
昔は体力があったからひとつひとつに悩めていたと気づいたこと。年をとって体力が衰えると、悩む気力の無さからはなから疑って考えるという選択肢がなくなること。昔なら励まされていた背中を押される歌詞に、「そんなに力んでも続かないよなぁ」と思うようになったこと。理想としていた自分の背中を追いかけて今日を無駄にするのは意味がないということ。自分の弱みを認めてさらけ出すのは勇気がいることだが大切だということ。
私もそう思える時がくるのだろうか。
まだ面倒くさがったり甘えたりかっこつけたりして、ひねくれた考えを悶々と反芻する夜は多い。けれど若林さんはそれを若さだともいっていたし、データ収集の期間だともかいていた。
けれど、力まないでいることは本当に大切なことだと、未熟ながら今までの少ない経験上、体感してきている。
自分のまだらで予測不可な、ポッピングシャワーみたいな感情も、妄想上で確かに触れたあの手の感覚も、自分でかみ砕いて的確な言葉で表現するのは難しい。語彙力もないし、ペンを握ったときには、すでに感じたものがあまりに溶けて原型がなく、手遅れになることが多い。
本が好きで小さいころから文章を書くのが好きだった私にとって、書き始めて最初の挫折は十分に、悲しいほどいとも簡単に心をぽきりと折った。
でも、力まずに行こう。
読書も、執筆も、学業も、恋愛も。
いつか若林さんみたいに、優しい雰囲気を持ちながら、長年の数えきれない経験によって出来たまっすぐな芯が真ん中にある人になりたい。そしてそんな文章がかけるようになりたい。
これも追いつくことのない理想の自分との鬼ごっこだろうか。いいや、力まず「いつか必ず叶えたい願い事」ぐらいにしておこう。
嘘偽りなく、細かな描写も丁寧に書かれていて、けれど最小限の表現だけで綴られて、私たちの普通な毎日にすっと馴染みながら、新しく適度なスパイスをくれる若林さんのエッセイ。
読んでいて本当に心地がよかった。