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ぶっ飛べ【テニス】



 今ある力以上の力を求めた時、本来必要となる努力分の代償が欲しくなる。いわゆる「ゴンさん現象」その人の輪郭を超えるもの。「求める」以上、それは衝動。例えるなら横髪が邪魔でボールをロストした時、その場にハサミがあれば迷わず切っていたというような。
 後のことなんか知らない。その場における絶対を欲した時、人は人でなくなる。人の形をしたナニカに変わる。


 怖さは曲線に集約される。無論、ただ打ち上げたものではなく、天に向かって全力で出力したような。それでいてコートに収まるような弾道。ここに男女の力の差が如実に現れる。
 以前少し話したが、初級にいる女性の弾道は高い。ずっとロブの打ち合い。それは飛距離を出すためであって、力を補うための高さ。同じく中上級にいる男性の弾道も高い。けれどこれはロブとは似て非なる。それはコートに収めるためであって、直線にしたらホームランな力を圧縮した結果の高さ。だから高いところにカメラを設置して、同じようにボールがフレームインしても、性質は全く異なる。一時停止した時、その文字が見えるか、ブレてまともに見えないか。孕む回転量の差。つまりだ。
 鬼の時も思ったが、私にとってこの高さが得意という訳ではなく、回転量の少ない非力が、相手に迷惑をかけないために同じ場所に打とうとすると、自ずと弾道は高くなる訳で。けれどもそれに合わせて戻していただくと、そうです。一方的に私が削られる訳ですね。


 理解する。だからだ。
 女性同士での高さとは根から性質が異なる。
 だから所詮「そこまで」なのだ。


 西岡選手の兄、靖雄は、直線のボールはいらないと言い切った。アウトするつもりでコートの後ろーの方から曲線のボールを打つ練習をした方がいいと。子供〜若年のプレイヤー、上を目指す人へのアドバイスで、とても一般人Aな私がやるようなことではない。と、頭では分かっているのだけれど、「頭では分かっている」の本質は「実際分かっていない」
 沸騰した脳みそ。人の形をしたナニカに変わった時、後のことなんかどうでも良くなる。とにかく今その力をよこせと思う。だから私に必要な練習だと錯覚する。

 打ち方は教わってる。だから合わせて打つことはできる。けれどそこに発生する感情。相手は打ってきているのだ。見るからに非力っぽい女相手に、全力で。
 打点を確認して出力する。私の場合、合わせて打つ時とフルスイングする時、打点が変わる。別に特別な技術ではなく、元々のボーリング打法が今のグリップでも可能だと分かっただけで、けれど目一杯下がらされた上で、打点を上げられた状態ではもちろん使えない。ただ、合わせることだけはできる。だからあの時、最低限必要なものは手元にあった。
 けれど、後々「打ってくるとこっちも全力で打っちゃう」と他の人が口にしたその通りで、キャッチの難しさは何より心。売られた喧嘩を買わない。挑発に乗らない。そこには「かせ」と称せざるを得ないほどの自制心が必要になる。


 そもそも何のためにテニスをしているのか。
 ストレス発散、社会とのつながり、試合で勝つため。
 そもそも何故この競技を選んだのか。
 きっかけなんて何でもいい。ただ打ちたかった。小さなボールが望む通り飛ぶ様は、一種の自己実現。自分の望む弾道を、自分の望むだけの力で、きちんと枠内に収めることで現れるのは、一生命体とは別の輪郭。
 同じコートで二つとして同じ打球はない。「それ」はその人だけのものであり、「それ」はその人自身。その人が美しいと、心地よいと、こう在りたいと望むもの。

 だから背伸びしたくなる。どうしても理想の自分を描き出したくなる。
 コンプレックスが強いほど、あるいは制御が効きづらくなるのかもしれない。そこでなら何者かになれる。その昔「バレリーナかと思った」と言われた私のように。

 いろんな人がいる。テニスは年代問わないのも魅力の一つ。ただ、それこそ怪我の心配をするほど全力で打ってくるいい年の方も多い。「かせ」が必要なのは、そういう人たちを見ていて感じる。余裕のなさはあまり美しくない。けれどそうせざるにはいられないほど、本人は本来以上の力を出力しようとする。
 それは何より、対象に希少価値を感じるから。上手いと感じた相手には全力でぶつかりたくなる。その人相手に通用すれば、己の輪郭が更新されるから。その様はどこか脱皮を思わせる。特に「圧倒的に実力差がある」と感じた場合、理性は一部を残してぶっ飛ぶ。ぶっ飛ばす以外ないのだ。普通にやって勝てる訳ないのだから。だからこの場合、自ら「かせ」を外す。リスクを負うと決めた時、全能力が底上げされる。

 モード、ガン攻め。夢中というやつである。
 私の場合腰を落とす。7割の神経が足に集う。弾道全てを下げることで速さを足す。リスクを負うことで迷いがなくなり、結果いい球が入るようになる。いわゆる窮鼠猫を噛む状態。ただ、副作用として理性ある相方が調子を崩すというデフォ。
 分かってる。力で張り合って勝てないことなんて。けれどだからと言って「どうぞ」と道を開けたくない。自分がどうしたいか。傲慢に、身の程知らずに、ただ貴重なその一球のために、
 尽くしたくなる。たぶん、それこそが本質。
 後のことなんて知らない。そのくらいその打球には価値がある。欲しいと思って得られるものではない。だから思いっきり背伸びをする。バレエなんてやったことない私は、正しい姿勢もままならない。肩が、肘が、腰が、膝が、足首全てがわめくエネルギー量を、受け止め、放出する。くだらない。私は、

 このためにこの身体はあるのだと理解する。

 いいからよこせ。今この一球に対抗するだけの力を。
 持って生まれた容器なんか知らない。そんなもの、根性で補え。
 私は。
 涙が出そうになる。
 この瞬間に全てをくれてやろうと思える。
 それを、幸せだと思う。



「ゴンさん現象」代償は決して小さくない。けれどだからこそ私には山田さんがいる。性懲りも無くまた少しだけ怒られて、まな板の上の鯉になって眠る。優秀なヒーラーは代償を最小限に留めるから、私はまた調子に乗る。まだ使える、と意気揚々コートに向かう。コートの後ろーの方から曲線のボールを打つために。
 そうしてまた旦那に「ごめんね」と言うのだ。





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