(8/9)回想、強制ベルガモット
【10月21日記】
不都合な真実。
一旦完全にテニスを離れることで、かえって気づいてしまったことがある。
俯瞰。何のことなしに回想を挟んだ『ニコイチ』で〈──ちゃん俺のこと好きやろ〉と言っていた男。思い出したのは、サッカーのさの字も興味のなかった私を引き摺り込んだ男が「まあ飲めや」と差し出したオレンジジュース。
紙コップのジュース一杯で買収された私はなんと廉い女だったろう。ただ当時の私にとって、男の引力は抗いようがなかった。ゴール前に立った時のギャップ。男はひどく凶暴だった。発するのはもはや怒鳴り声。そうして動かす。周りを動かす。いつだったか「試合が終わった後、両手が汚れていないのが一番上手いゴールキーパー」と教えてくれた。
教えてくれた。一つ上のマネージャーの先輩が、ゴール裏で見ている私に、呆れたように「何ソレ」と。
ボールが飛んでくると危ないからと言われて、何も知らない私がそこにいたのに対して、「何ソレ。自分が一番かっこよく見えるところじゃない」と。
青い集団に混じった黄色のユニフォーム。通さない、と言った。ゴールキーパーは最後の砦だから。事実、地元で有名だっただけある男は、面白いようにボールを弾いた。
声が消えない。
仲間と輪になって談笑する。大きい口で手を叩いて笑う、その声が。
「──ちゃんッ」
私を呼ぶ声が消えない。
男は部員同士が接触した時、ボールが吹っ飛んできた時、決まって大きな声で呼んだ。そうすることで自分の望み通りになることが分かっていたからだ。
私はというと呼ばれる前からコールドスプレーを持って駆け出していたし、さっと日傘で避けていた。
柑橘の香り、ベルガモットはミカン科だ。ミカンを特産とする、男は愛媛出身だった。
浮かんだは黄色。黄色の背中。
ゲームをする体力などとうに残っていない私は、定点で成り立つサーブしか打てない。リターンしか返せない。癇癪に限定せずとも、三井寿を彷彿とさせる赤子のごとき頼りなさで、けれど打球はもうここには返ってこない。
通さない、と言った訳じゃない。でもななコはそこにいる。一球さえ、一球さえきちんと返せばななコがどうとでもしてくれる。
笑う。ナイスリターン、と。
下唇を噛む。本当は、
「とって!」と言える状態でいたかった。当然にそれが叶うものとして。一歩を。踏み出す一歩を、この時ほど渇望することはなかった。
ななコは黄色。
以前私のラケットバッグの近くに置かれていた白いグリップのラケットを見た時、前の時間の中級を受講していた私は、終了10分前くらいから時計を振り返っていた。時計を見たついでに男が現れるのを待っていた。少ししてぬっと現れた男が着ていたのが「小学生が手を挙げて横断歩道を渡るような蛍光の黄色」だった。思わず笑ってしまう。その後一旦事務所に戻った男が上着のジッパーを上げながら来るのとすれ違ったのだが、笑ったのがバレてないかヒヤヒヤした。とにかくその印象が強烈過ぎたから、ななコはもう何があろうと黄色だ。
ただの女性として向き合った3本のアロマ。
ユーカリ、ベルガモット、イランイラン。
香りが充満する。
充満する香りの中で、聞こえるはずのない声がした。
〈充分休んだろ〉
そうしてボールを打ち出す。まるで2球目を打ち出すように。当たり前に続きから始めるように。
それはもはや条件反射。
テイクバック、インパクト、フォロースルー。
刻み始める4拍子。
ボレスト。合間ななコの笑顔が見える。
これが全てでいいと思えるような、つり合ったやり取り。生まれるリズム。
4拍子。ずっとメガネくんと打っていた、
〈もう一球〉
打ち出されるボール。このラリーは終わらない。
終われない。私もう戻らなきゃ。
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