見出し画像

ラケットを置きたくなった日のこと(前編)【feat.メガネくん】



 前回同じ場に居合わせたのに打てなかったから、という訳ではない。偶然都合がついたため、再びメガネくんのいるクラスに顔を出す。いつもの光景。

「こんにちは」

 いつも通り声をかけると、メガネくんは顔を上げてにっこり「こんにちは、お願いします」と言った。それだけで心が緩むのだから、いい加減自分に呆れる。

 今回いたこの時間帯の固定メンバーは男性2人。他は全員振替のようだった。手足の長い男性2人や、明らかに血気盛んな男子中学生など、野郎+私で計8名。男女の比率1:1という比較的緩いクラスというイメージがあった分、毛色の違いに戸惑う。

 戸惑う。目を細める。あれ、ひこにゃんじゃね?

 ストレッチ。通常皆が使うベンチとは反対側にあるベンチを使う、その体幹太めの黒縁メガネは

〈偶然都合がついたため、再びメガネくんのいるクラスに顔を出す。いつもの光景〉

「いつもの光景」なはずがなかった。ここはいつもいるクラスではない。

 あの時、メガネくんしか見ていなかった時、すれ違う視界の端でペコ、と頭を下げたのはひこにゃんだった。すごく失礼なことをした。悪かったと思って、気づかなかった。今日はこの時間帯なのかと尋ねると「いえ、私今日は振替で」と返ってきた。どうしたワタシてw

 しかし笑っている場合ではない。今回はマジモンの男性7人と戦わなければいけないのだ。ストロークはスピン系ベース。打ち合いたいのか繋げたいのかリズムを取りたいのか。年代も違えば目的も違う。息を合わせるようにしてラリーをする。

 ボレストでかち合ったメガネくんは、珍しくボレーが安定しない。ボレスト自体半年ぶりくらいで、照準を合わせるのに時間がかかるのはある。ラリーではこの人ならではの着弾点の深さ、高い弾道、低い弾道、前に出るならボレーにと、実に柔軟な動きを見せた。欲を言えば私自身、もう少し前に出ればよかった。ただ最も遠くで打ち合うことが、それで通じることがうれしかった。

 照準が合う。どう打っても入る。バックハンドも安定する。珍しくボレーで動揺を見せたのは、私自身のバックハンドの打ち方、安定感によるものだと自惚れている。ずっと練習してきた。バックハンドで2本、ラリーを中断させてしまったあの時から。

 ただ力によるものではないサーブ。回転が加わることで振り切っても入る。どう打っても入る。セカンドもファーストで打っていいくらいだ。ストロベリーオンザショートケーキ。速水オンザ調子。そんな無双状態で入った試合、一年ぶりくらいにメガネくんと組むことになった。いつものコーチはお休みのため、余計な横槍も入らない。サーブは向こうから。対角線上に入る、直接の対戦相手はひこにゃん。よしキタイケる。最高の組み合わせじゃないか。トスが上がる。


 この日違ったのは、ひこにゃんのファーストの確率が良かったこと。高く弾んだボールがラケットのフレームに当たって弾かれる。本当はここで気づくべきだった。

 メガネくんはひこにゃんのサーブを知らない。ひこにゃんは私が前回このクラスに来た後、毎週いつものクラスにいた。だから少なくともそれ以降、このクラスに来るのは初めてだ。だから初手は返球が難しい。私自身の落ち度は、前回ひこにゃんがフォアサイドで2本ダブルフォルトをしていたため、リターンの立ち位置を見誤ったこと。この男のサーブを受けるには、本来もう2歩下がるべきだった。先手2本エースをとった男は調子づく。このコート上、最も調子づかせてはいけないのは、間違いなくこの男だった。

 リターン。前に躍り出たひこにゃんは、よく見えている。ストレートに打球を流した。決め球ではない。きちんと受けて、行く先を示す。そのミスしようのない打ち方。思えばスマッシュとハイボレーの間の打球も同じ性質だった。

 気負う。カウント40−0。この男を調子づかせてはいけない。そう思えば思う程、何かがずれていく。半端に知っているというのが、もしかしたら最も厄介かもしれない。メガネくんは人に合わせることができる。私はあの時、ただそれを信じればよかった。

 合わない。何とかとったポイントを、私が力任せに打ったショットで相殺する。大きくアウト、ネット。サーブが入らない。本日7ゲームやって、ダブルフォルト3本。途中、誰か殺してくれよと本気で思った。頼む歳三。メガネくんは、


 こういう時めっぽう強い。普段物静かだから、ただ後ろで自分の役割を全うするだけだから気付きづらいが、「僕がやらなきゃ」と思った瞬間、もう一段階深く潜る。サービスエース3本。「どけ」とは言わない。無理めなボールも前衛で処理して、ポイントをもぎ取る。私はというと、心拍数に打球が合わず、まともにインパクトすらできない。何とか返した力無いボールを打ち込まれて、それがネットにかかったところで何の感情も生まれない。ただ足手まといになるだけなら、この場にいない方がマシだとさえ思った。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?