見出し画像

パチモンのプライド


 シャウトしたいと思った時、ケリークラークソンの「Since U Been Gone」が浮かんだ。もう10年以上前聴いていた曲だが、それに引っ張られてか一緒にリストに上がってきたのは「Cocktail」。「歌い手」と呼ばれる人達による曲で、これまた当時よく聴いていたもの。
 
 今もまだその風潮が残っているかわからないが、当時歌い手というと「人の楽曲にあやかって収益を得る」二番煎じとしての印象が強く、あまりいい目で見られない印象が強かった。事実「Cocktail」の歌い手、グループリーダーのluzは「XYZ(グループ名)を始めたきっかけは、歌い手の文化がバカにされないようなかっこいいイベントを作りたかった」とコメントしている。「歌い手をバカにする」というのは私自身、「男性に比べ女性の方が聴覚に重きを置くために、自分のパートナーをひょいと取られる感覚に苛立ちを覚えた男性陣による印象操作」と勝手に認識しているが、実際それほどまでに声の持つ力は大きく、いい年した一般人Aを一時的に10歳くらい若返らせるくらいの力を秘めている。
 

 本歌取り、というものがある。当時一般的に知られていた手法の一つで、有名なものに平兼盛作、天徳4年(960年)の春に催された内裏歌合の大一番で登場した「しのぶれど 色に出にけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」というものがあり、これは本歌「恋しきを さらぬ顔して 忍ぶれば 物や思ふと見る人ぞ問ふ」からつくられたもの。
 現代においても本歌取りよろしく本家から派生するものは多種多様。パッと浮かぶのはひろゆきの切り抜き動画やYOASOBIの楽曲か。そうして内一つが歌い手による作品。じゃあ「本歌取り」が許されて「歌い手による作品」が許されない理由は何かと考えた時、第三者の有無がその明暗を分けたように思う。
 実は「しのぶれど〜」と「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか」の対決となった時、拮抗して判者が優劣をつけられずにいた。そこで帝に助けを求めた訳だが、帝は取り合わなかった。結果「しのぶれど」が勝った訳だが、この時実はこの歌が本歌取りであると帝も判者も知らなかった。本歌取りは本歌がある以上、競い合う場においては相応の枷を負う条件付きで舞台に登っていたため、このこと自体、本来あってはならないことだった。ただ、だからと言って帝を責められる人はこの世にいるかという話である。正式な場でさえ起こり得たミス。それでもベースかせがあるという共通認識がために本歌取りは容認されていた。
 一方で歌い手による作品は「本歌」の作者の許可さえあれば誰でもつくれる。故にバックボーンを持たず、個人間に終始するやり取りを起点とし、加えて「いくつものオーディションを勝ち上がった実力者という訳でもない一般人ベースのyoutuber」ともなれば、視聴者に近い分羨望が働き、自然当たりは強くなる。YOASOBIでさえ自称音楽詳しい人による批判の声はあるくらいだ。
 
 だからせめて原作者と歌い手の他にもう一人第三者がいたなら。その人の実力を再生数ではなく純粋な技術で評価する人がいたならきっと「歌い手の文化をバカにする」なんてことは起こらなかったんじゃないかと思ってしまう。そもそも芸術に優劣をつけ、評価するなんてできない上、対象が声などという個人の主観に依るものだからこそ好き勝手言われる訳だけれど。
 
 本歌取りと言えど、判者のミスと言えど、こと現代において知名度が高いのは「しのぶれど」。よかったから残った。よかったから再生数は伸びた。
「Cocktail」幻海師範よろしく一時的に若返って懐かしい歌声に耳を澄ます。nqrseのゴリゴリのラップが好きで、キャラクターと声が一致せずパニックを起こした当時まで思い出す。
 年月を重ねようと、似合う色が変わろうと、私の色は何も変わっちゃいない。そのことをせめて自分だけは覚えていよう。本物になれずとも精一杯足掻いたことを、これでよかったと胸を張って言えるように。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 
 
 
 「完全なオリジナルは存在しない」として芸術をAIに置き換えられる発言としたのはホリエモンだったか。確かにそんな世の中になりつつある。
 こと私個人においても、いつだったか二次創作自体禁止されていることを知らず、林檎さんの曲を元に作品を作って消されたことがある。最近だと「葉桜なら散らない」も二次創作か。あくまで私の中でだが、後から見返すと「half lovers」は村山由佳さん、「先生あのね」は京極夏彦さん、「デュアル!」は朝井リョウさんの色が強い。ただ、拙くともこれが私の文化だ。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?