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「夜明けのすべて」派生、「パニック障害」一般人Aの見解



 例えば「決まった時間に食事をとる」とか「睡眠時間を確保する」とか「適度に運動する」とか「ストレスを溜めない」とか、やるやらないは別として、未病がためにできることは多々ある。「パニック障害もそんな風に防げたらいいのに」と思う一方、いや、彼女は言われたとしてもやらなかっただろうなとも思う。誕生日プレゼントを禁煙パイポにしようか迷ったと打ち明けた時、彼女は「いらん」と割と本気で迷惑そうに言った。


 所詮人も動物だって思うようにしている。
 いつだったか「今日も息してた! 100点!」と誰かが言っていた。努力した結果0点になるのは仕方ない。ただその努力とやらにも内訳があり、例えばそれは老衰であったり思い通りにならない中での足掻きだったり、そうして努力した結果0点に「なる」0点に「する」

 夏目漱石が「こころ」を執筆した時代、一家のうち一人が働けばその他複数の人間が食べられた。働くこと一つとっても向き不向きがあり、そんな許容の中、四六時中絵に没頭する人がいたとしても(白い目を浴びようと)赦された。芸術を至上とする人にとって、中断されることなく延々潜ることができるというのは、どれほどのことか。
 一方令和における現代では、少ないπを奪い合うかのような長時間拘束の仕事、加えて家事育児介護、ITと張り合うかのごとく時間効率が重視され、本来ゆったりとした時間を楽しむための食事の場でも、シェフ自ら「お待たせしました」と給仕の手伝いをするほど。現代人はそれほどまでに時間に厳しい。ともすれば取って代わられないように「だから自分は必要」と常に主張していないと自分一人生かせない。
 分かっていて雪道で立ち往生するトラックの列。分かっていてそうせざるを得ない現実。綱渡。それほどまでに「生きる」難易度は高い。所詮動物だろうと。


 所詮人も動物だって思うようにしている。
 けれど自死を選ぶのは人だけだ。「所詮動物」が他の動物が起こさない行動をする。唯一思い通りにできる本体そのものに危害を加える。
 とある友人を例に挙げる。10年経てばもう時効だ。

 最終、パニック障害を患って自死を選んだ彼女にとっての世界は、1Kの一室だった。その2年前には仲間内で伊勢旅行に行ったり、人が大勢押し寄せる学食で一緒に食事をしたりしていた彼女にとって、自分を囲うその空間だけが雨風や人の目から凌げる世界の全てになった。その様子は、切れ端ながらmixiに残っている。当時彼女には奥さんがいるという男性と繋がりがあった。

 別にこの男性に全てなすりつけるつもりはないし、そもそもそれだけの価値がその人にあるかと言えばそうではないと私個人は思っているのだが、明確にギルティと指差す言動があったので晒しておく。

〈君みたいな若くてキレイな子が、こんなことしてちゃダメだよ〉
 男は「このままでは幸せになれない」と言ったという。

 自分には帰る家があるけど云々。本人相手を思い遣っての言動だろうが、残念、「お前だけはそれを言うな」案件。仕事でも一緒。生半可人の領域に手や口を出す人間はマジで嫌われるから気をつけた方がいい。実際言われた彼女も「は?」と思ったという。
 分かっててヤってんだよお互い様だろうが。

 互いにギルティ。謝ることは自分だけその罪を逃れようとする行為。謝ることは、間違いだと認めることは、互いだけは赦し合っていたはずの相手を一人、その場に置き去りにする行為。間違いだと認めることは同時に相手を否定する行為。しかも一段高いところから。

 同じところにいた。同類だから傍にいた。けれどそうして上下ができて仕舞えば関係は変わる。自分にとっての相手と相手にとっての自分。どこか相手のせいにしながら、けれどもそもそも自分が悪いのだという前提があって、絶妙な均衡の上に成り立っていた関係。

 要は飽きたのだ。詰まるところ、関係を終わらせたかった。バレた時のリスクと、今手にしている都合のいい関係を天秤にかけて、リスクが勝った。それほどまでに、新鮮だった関係が酸化して、嫌なにおいを放ち始めていた。本当はただそれだけのこと。それをさも相手を思いやるような言い方をすることで、自分はその汚れを負わないとする様が、実に醜い。思いっきりカラーボールぶつけてやりたくなる。
 だったら「わり、やっぱバレんのキツいから終わろう」の方が潔い。相手によっては刺しにくる可能性はゼロじゃないが、その関係を選んだこと自体、過去から現在に至るまでを否定されるよりずっといいんじゃないかと個人的には思う。まず始めたのは本人だから、無傷で逃げ切れると思うこと自体甘いのだが、兎にも角にも、

 彼女がギリギリ今を保っていられる現状の一つを、無神経な言葉一つで粉砕したのは間違いない。彼女は罪を認めていた。認めた上で自ら選んだと言っていた。仁義を通していた。まあハナっから間違ってるからどこまで行っても間違っちゃいるんだけど、でもいつだって正しさを選べる訳じゃない。それは彼女にとってタバコや酒と同カテゴリだったに違いない。


 いつだったか東京事変のライブに行ったと言ってお土産に旗を買ってきてくれた。私は好きだから喜んでたけど、残り2人は微妙な顔をしていた。買ってきた本人が誰よりうれしそうだったから、その対比はよく覚えている。CDやDVDも貸してくれた。誕生日に「あげる」と包装もなくくれたピンクの羊のぬいぐるみは、今でもダッシュボードにいる。今思えばしてもらってばかりだ。
 思い返してみれば伊勢旅行を計画したのは彼女だった。まさか日頃、昼間でも黒いカーテンを閉め切って蛍光灯に照らされながら生活していた人間から出る提案とは思えない。そうして当日、彼女は「なんかわからんけど、会わんでもずっとこの関係は変わらない気がする」とやわらかな関西弁で言った。なんともやわい色をしたおめでたい思いを、満面の笑みで口にしたのだ。


 タバコも、酒も、男も、不倫も、自殺も、きっと一様に否定されること。けれど、私よりもはるかに「優」の多かった成績表、傷ついた彼氏に作った味噌汁、一人黙々と計画していた旅行、何より、
 自己主張の塊が集う空間において、ただ聞くことのできた彼女の存在価値は計り知れない。余分な口を挟まず、ただありのままを受け入れることのできた彼女にどれほど救われたか。

 最終1Kに閉じ込められた個体は、けれども確かに存在していて、それは何年経とうと色褪せない。何が変わろうとそこだけは時が止まったまま。
 当時ウサギを飼っていたという彼女は「めんこいけどよく食う」と嘆いていた。わずかに手に残ったものを与えることで必死に生きようとしていた。


 所詮人も動物だって思うようにしている。
 手のひらサイズの機械を自在に操るようになろうと、長い歴史や広い宇宙の中、瞬き一つに紛れるような存在に過ぎない。優秀の定義だって所詮ただ一つの物差し。所詮動物の端くれなのだから。だから

 もっと自分を大切にしてよかった。相手を守るように、もっと自分を守ってよかった。
 彼女は自立できないこと以上に、社会に迷惑をかける、誰かの役に立てないことを理由に、自分を追い込んだ。そうして「今の自分ができる、シャカイにとって最も役立てること」が自死だった。それは「生きている限りCO2を排出し続けることに対して、呼吸してごめんなさいと言う」のに近い。そのくらい、何というか、不毛。
 基本本人が思う以上に周りは考えてない。皆自分のことに精一杯で、じゃなきゃ自殺する環境自体整わない。誰かの表情を、機嫌を過剰に伺うのは自信のなさ故。自己肯定感を削られた彼女は、冷静な判断ができなかった。関わる人が少なかった分、余計に拗れたのかもしれない。小学校の時、お弁当を忘れた子にクラスメイトがちょっとずつ分けていたように、誰かにとってのそれは本当に些細なもの。

 彼女の本当の死因は「頼ることができなかった」「心から頼れる相手がいなかった」こと。
 彼女のいたシャカイが、上司が、そのまた上司が、追い詰めた。生半可真面目で頭の良かった彼女は、それを正面から受け止め、応えようとして、応えきれなくなった。そうして応えられない自分が悪いと自分を追い詰め、とうとう頭と身体が分離した。身体は生体防衛本能としてきちんと拒絶した。この時の身体の判断は間違いなく正しかった。けれど今度は心が身体に反抗した。

 所詮人も動物だって思うようにしている。
 動物由来というか、根本動物なのだ。だから心というのが一番厄介。それが人間たる所以、故に人間だけが自ら命を断つ。

 パニック障害は責任感の強い人、真面目でやさしい人ほど起きやすい。だから10年もたない。
 もしかしたら身近にそういう人がいるかもしれない。それほどまでに身近な病気なのだということをまずは知って欲しいと、この作品を通じて思う。







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