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真綿【feat.玉ちゃん】



 シングルスをやってるみたいだと言われた。確かにそうかもしれない。
 君がいない方が平和じゃないかと言われた。私程度がその場に大きく影響しているとは思えないけれど、分からなくもない。
 OPPOを見る。時計としての機能。それは「記憶などという曖昧なものに構築されている世界」の座標がイチ。縦軸と横軸。緯度と経度。
 現在地。旦那と向き合って食事をしながら「今ショートストローク始めたところかなあ」と呟かずにいられないことこそが、最も深い罪。


 人は自分のことを好きにさせてくれる人を好きになる。だから本当は対象なんて誰でも良くて、自分を大きく変化させてくれる相手にこそ惹かれる。私自身度々好みの話をしてきたが、それもまた同質。だからいつだって「おうち帰りたい」となるのは、烏滸がましくもその場にいる人たち全員の打球が自分でも打てると錯覚した時であり、相手が男性であると殊更不穏が増す。どうしても「女性にはない力を持っているクセに」と思ってしまう。
 もちろんストレス発散ばかりが目的ではない。その感性は、陣形を崩して勝敗を競う、極めて理性的なものかもしれない。
 一人よがり。幼く、傲慢で、ついでに贅沢な自分を、私自身こそ持て余している。



 例えるなら「それ」は相槌。
 どこか会話に近しい、やさしいキャッチがイチ。


 人柄。控えめで静かな、それは根本ヴァッファリンの性質。
 いつだったか、中上級の後日、ズタズタに傷ついていた時、ショートストロークで向かいに入ったのは玉ちゃんだった。丁寧なキャッチ。合わせて押し出す。のれんの如きのど越しの良さ(ちょっと意味分かんない)が、まるでおかゆのようだと思ったことを覚えている。不意に心がゆるんで感謝したのを覚えている。それは元々持つ性質から受ける恩恵だからこそ、まっすぐ染み込んだ。

 テニスをすると言っても目的は人それぞれ。どこに喜びを見出すかは個人の自由。じゃあ玉ちゃんにとっての目的は何だろうと考えた時、真っ先に浮かぶ形があった。
 オープンスタンスのフォアハンド。
 上がりまちを叩く時、上に向かう弾道に合わせて膝が伸びると、オープンスタンス、下から上に力を放出する回転運動は、性質上どうしてもネットしやすい。力はある。けれど出力が安定しない。ただそのインパクトから見えていたのは、己の弱さと向き合う姿勢。「逃げない」。能動的に戦おうとする意思。どうにか自分で切り開こうとする意思。

 視野の狭さは研ぎ澄ます感覚故。煮詰めて煮詰めて。けれどもぶつからなければ、突き当たりまで行かなければ見えない景色がある。たったひとつ、寄る辺さえ掴んで戻って来られれば、それは一般的なフォーマットからでは決して得られない、その人だけの自信になる。


 ねえ、玉ちゃん。


 バックハンドに受けるファーストサーブ。受けて、まっすぐ返す。あはは。ひここがいたら完全に餌食だった。あいつさえいなければ、トップスピンだろうと真っ直ぐ前に力を放出することができる。じゃじゃ虎はこの重さに耐えてくれる。
 ベースライン上でバウンドした打球。返球は重心が後ろに寄らない、きちんと力を加えられたもの。



 実は私も掴めたの。
 バックハンドの突き当たり。たったひとつの寄る辺。
 だからこれだけのサーブにきちんと応えることができる。それがただただうれしい。

 だから。
 私も逃げない。



〈シングルスをやってるみたいだ〉
 一定の速度でスペースを狙って崩すのではなく、打ち込んで力づくで崩して叩く。
〈君がいない方が平和じゃないか〉
 合わない。速さが浮く。
 一人よがりで、合わせる気のない、どうしようもない身勝手な愛。それが。

 馴染むように錯覚する。
 見えたのは敬意。それはこの競技に対して発生する思い。男の目的は、愛し方は、どこか似ていた。
 弱い自分を振り払うため。そうしてこの手できちんと愛したかった。

 共鳴。
 一人ではないと思える。ああ。

 私はさ、もう充分幸せなんだよ。
 テニスができて、楽しいと思える人達の中で打てて。
 例えばそれが独りよがりで、傲慢で、その場の平和を害するような性質から、周りが迷惑を被ることがあったとしても、私個人は無駄に幸せなんだよ。

 ラリーの最中、不意にチャンスボールが転がり込んだ。センター。逆クロスにスペース。バックハンドで打ち込む直前、影が動いた。
 スペースを埋める。ここに来ると分かったから追いつく。
 玉ちゃんは私の速さに応えてくれる。
 似たような「重さ」の打球が返ってくる。
 相槌を打ってくれる。

 点の取り方があって、私自身、最早色味のない勝敗では満足できない。本気で打ち込んだものが返ってくる。なんて。身に余る。
 理解者がいる。このこと自体、真実かどうかなんてどうでも良くて。そう思った時点で個人にとっては「真」


 



 旦那と向き合って食事をしたところで「今ショートストローク始めたところかなあ」と呟かずにいられない。いつだってその「楽しさ」と称するものには、後ろめたさがつきまとう。
 所詮言い訳なのかなと思う。

 テニスができること。それは例えば転職して決まった予定が組めるようにならなければ叶わなかった。フォーマット通りの将来を想定していたとはいえ、パートナーの理解ありきに違いない。
 テニスができること。少し前、話に出したことがあるが、以前片足を事故で失った人と付き合っていたことがあって、その人は剣道をやっていた。学生の頃大将を務めていたというその人が、片手で木刀を持って構えた時総毛立った。立ち姿だけでその実力が分かるようだった。それだけの人がもう二度と戦うことができないという事実は、はっきりと今ある足元の高さを認識させた。


 私は今幸せです。何故なら幸せでいられる条件をあなたがくれるから。
 口にする程言い訳じみる。後ろめたさが募っていく。
 分かっていても、それ以上言わせない強制力が働いている。

 ウソは一つもついていない。けれど。


「ごめんね」と口にする。
 旦那はいつだって苦笑いした。
 この競技は、罪深い。





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