富士山1707年12月スコリア斜面崩壊による谷埋め堆積物
富士山中腹で1707年12月後半の2週間に渡って進行したプリニー式噴火のとき火口のすぐ脇、宝永山赤岩の崖下から東になだらかに広がる斜面にスコリアが厚く積み上がった。噴火中または噴火直後にその斜面が不安定になり、まだ熱い大量のスコリアが幕岩を目指して下方に移動した。幕岩のすぐ上流の谷壁で、その堆積物が幕岩溶岩の上に厚さ10メートルで乗っているのを観察できる。
堆積物はほとんどが黒いスコリアからなる。スコリア礫のあいだに細粉は含まれていない。火口近傍の降下堆積物のようにも見えるが、分布が谷だけに限られていて10メートルも厚い。1707年降下スコリアの厚さは700メートル離れた二ツ塚スコリア丘で50センチである。等厚線から期待されるこの地点での厚さは25センチだから、これが地形を一様に被覆した降下堆積物であるとは考えられない。スコリアは平たい破片に割れやすい性質を持つ。堆積物断面や登山道で、すでに割れているものを多数観察できる。水冷されたのかもしれない。
よく知られているように1707年12月プリニー式噴火は白い軽石の噴出から始まった。その層序がこの堆積物の中でもおおむね維持されていることは、これが火砕流のような粉体が混濁したガスの流れではなく、地すべりのように斜面上を滑動したことを示している。ただし、通常の地すべりよりずっと高速で、見るまに移動したことだろう。12月だったから、地表を覆った積雪がその運動に何らかの役割を果たしたかもしれない。
水流で運ばれた堆積物すなわちラハールだとも考えにくい。もし水の流れなら、火砕流と同じように流下中によく攪拌されてしまって最下部に軽石が集まって原層序をおおむね維持することはできない。
最下部に軽石を敷く原層序の維持は、プリニー式噴火の進行中、毎日のようにイベントが繰り返されても叶えられる。しかし堆積物断面にフローユニットが確認できないから、イベントは一回だったと考えるのが妥当だ。
ただし、上部には成層した部分も見られる。イベントのあとに水流が何度か下ったのだろう。
この堆積物の基底に埋没林があることは38年前から知られていた(宮地ほか、1985)。埋没した樹幹はどれも芯までよく炭化している。森林を埋没したときの軽石とスコリアはまだ十分に高温だった。このことから、この斜面崩壊は噴火中または噴火直後すなわち1707年12月に起こったと考える。翌年1月までずれ込んだ可能性もあるが、スコリア丘内部でゆっくり高温酸化されてできる赤いスコリアがひと粒も含まれていないから、1月後半以降まで遅くなることはなかっただろう。
宮地ほか(1985)は、森林を埋没した軽石スコリアはプリニー式噴煙柱から直接その場に降り積もった堆積物だと考えた。異常に厚くて粗いことに気づいていたが、彼らはそれを上層風と下層風の向きが違ったことによると説明した。しかし、理解することはむずかしい。「軽石層が上面も下面も波状を呈しており、その層厚は1~5mの波長で10~70cmまで変化する」と、降下堆積物としては不自然な性質にも気づいていた。
火口近傍東側にうず高く積み上がったスコリアがこの方角(南東)に崩壊したのは、富士山本体斜面の中途に宝永山赤岩が盛り上がっているため北東斜面より南東斜面がずっと急だからだ。ただし南東斜面だけでなく東斜面も不安定になって崩壊しただろう。二ツ塚の北側にも同様の堆積物があるにちがいない。しかし、そこはその後のスラッシュなだれ堆積物で厚く覆われてしまっていて地表露出は期待できない。
(2023年6月21日と7月7日調査)
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