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日本一小さな町のnote #12[詣]前編

日本一人口の少ない町・山梨県早川町の魅力をお伝えするnote、今回もカメラマンの鹿野がお送りいたします。

さて、なぜ僕が出身でも在住でもない早川町とこうして関わっているのか。それは町内にそびえる七面山へ毎月登っていたことがきっかけです。偶然NPO法人・日本上流文化圏研究所さんが写真による町おこしを企画していることを知り、それならばと七面山の玄関口である赤沢宿での写真教室を実施。その直後の2013年、僕は写真集『感應の霊峰 七面山』を出版しますが、同じように早川町の写真も発表できないか…と辻一幸町長から相談され、2016年に写真集『日本一小さな町の写真館』が生まれました。

そもそも七面山に登り始めたのは、隣の身延町にある日蓮宗の総本山・身延山久遠寺の記録や広報写真を撮影していたから(というか今もしています)。七面山にはその久遠寺の“飛び地”でもある宿坊・敬慎院があります。久遠寺と関わるようになって、修行や信仰をテーマに作品を撮りたいと考えていましたが、僕が求めていた世界がまさに敬慎院でした。写真集出版から10年以上経った今も七面山に登り続けており、最近では公式動画の制作も行っています。

というわけで今回のテーマは信仰が息づく七面山です。標高は資料によって誤差がありますが、敬慎院が用いているデータでは1982m。古くは修験道、現在では法華経の聖地として信仰を集めています。その名の由来は、隣の身延町や南部町からよく見える、山頂直下の巨大な「ナナイタガレ」。その近くに敬慎院、さらに北側に七面山奥之院と2つの宿坊があります。奥之院は個室からなる小規模な宿坊ですが、敬慎院は軽く1000人以上は宿泊可能。先に触れた通り、身延山久遠寺の“飛び地”な境内であり、地番もその一角だけは早川町ではなく「身延町身延」です。

赤沢より七面山をのぞむ。山頂は写真よりずっと左上にある。
写真集『日本一小さな町の写真館』(平凡社)より

飛び地になった背景には、江戸時代西側の雨畑村と、東側の赤沢村で所有権争いが起き、身延山が仲介をしたという歴史もあるようです。その後雨畑の人たちは敬慎院で維持管理や山仕事に従事するように。一方、赤沢の人たちは参詣者を相手に旅籠や強力(案内)を営んだり、敬慎院へ物資を運ぶようになりました。昭和52(1977)年には麓と敬慎院を結ぶ索道ができ、人力で荷物を運ぶことはなくなりましたが、「ここに嫁いできたその日に、姑さんからガスボンベを敬慎院まで運ぶよういわれた」という話も聞いたことがあります。ガスボンベを背負ったら、男性でも平地をまともに歩けないと思いますが…。

ただし案内人である強力さんは(今は町外に住む方がほとんどですが)健在。数十人や数百人単位の団体になると、ペース調整やサポート役として欠かせません。また令和の時代になんと駕籠もあります。麓からは索道こそあるものの、人間は自らの脚で登るしかありません、それが無理ならば、他人の脚を借りるというわけです。

先頭で駕籠を担いでいるのは赤沢出身の依田さん親子。ちなみに右がお父さん、左が息子さん。僕が早川町を撮り始めた頃は、息子さんもまだ小さかったのに…

僕が七面山を撮り始めた2010年頃は、月に一回くらいは駕籠で登る方がいました。今はだいぶ減ったようですが、9月の大祭では身延山久遠寺からやってくる導師さまが、駕籠で登ってこられます。

駕籠は特殊な例ですが、実際には年間数万人が自らの脚で登ってこられます。近年は登山目的の方や、年末恒例のトレイルランレース「身延山七面山修行走」の影響でトレイルランナーの姿も目立ちますが、信仰で敬慎院を目指す方が大半です。しかも80代や90代の方もお見かけしたことがあります。

「身延山七面山修行走」の様子
写真集『感應の霊峰 七面山』(平凡社)より

そんな信仰の世界はどうして生まれたのか。七面山は平安時代から甲斐修験の霊場として、紀伊半島からやってきた行者たちが籠もっていたといわれています。その近くの身延山では鎌倉時代、何度も幕府に追われてきた日蓮聖人が晩年を過ごしました。健治3(1277)年のある日、日蓮聖人が身延山の高座石(現在も妙石坊に残る巨石)で弟子たちに説法を行っていると、聴衆の中にひとりの美しい女性が。弟子や聴衆が見知らぬ顔にざわついていると、日蓮聖人は女性に正体を明かすよう促します。それは七面山に住む天女で、七面大明神として身延山の鬼門を抑え、法華経を護ることを誓うと、山へと飛び去っていきました。

日蓮聖人は自らの手で七面山へ大明神を祀りたいと願いますが、その夢叶わず弘安5(1282)年に入滅。その意志を継ぐべく、永仁5(1297)年、日蓮聖人の高弟・日朗上人と、同じく日蓮聖人を支えてきた地頭・波木井(南部)実長公が七面山へ登りました。暗くなって2人は山中で夜を明かしますが、翌朝目を覚ますとそこには豊かな水を湛えた池が。これが本殿の裏手に広がる一の池です。2人は池の畔に七面大明神を祀りました。その日(9月19日)が七面山の開創とされ、今も9月18日の夜から9月19日の朝にかけて、賑々しく大祭が執り行われます。

さらに歴史が大きく動いたのは、江戸時代のはじめ。水戸光圀公の祖母でもある徳川家康公の側室・お万の方は、大野山本遠寺(身延町)で家康公の25回忌を終えると、心の中で温めていた七面山への登詣を願いました。当時の七面山は女人禁制で、「山が穢れる」と地元の人々は大反対。しかし「皆成仏」を掲げる法華経に帰依していたお万の方は、「法華経を守護する七面天女がいらっしゃる山に、法華経を信じる女人が登れぬはずがない」と主張。麓の白糸の滝で7日間身を清めたのち、女性として初めて七面山に登詣。女人禁制を解きました。アメリカより300年も早いウーマンリブ(女性解放活動)です。

そんなお万の方の話が広まり、さらに富士川の舟運や七面山の表参道が整備されたことも相まって、身延山と七面山をお参りする「身延詣」が江戸や上方の人々に流行しました。元禄年間には『身延鑑(みのぶかがみ)』という身延詣のガイドブックが出版され、江戸の人々に相当読まれたようです。江戸から参詣する場合は、甲州街道で鰍沢(現在の富士川町鰍沢)へ向かい、そこから富士川を舟で身延まで下ります。身延山を参拝した後、いくつもの山を越えて七面山へ。そして再び身延山をお参り。門前も賑わっていたとされ、帰路の前に精進落としをする人も多かったのかもしれません。そんな身延詣がメジャーだった証に、江戸時代末期には身延詣に向かうエピソードをネタにした古典落語の傑作『鰍沢』も生まれました。

明治以降も七面山には多くの参詣客が訪れ、さらに大正から昭和初期にかけて身延線が開通すると、さらに賑わいを増しました。当時は個人ではなく“講”という集団で登るのが主流。麓の赤沢は宿場町・赤沢宿として、白装束を纏った登山者と下山者でごった返していたようです。ヒマラヤにおけるカトマンズのような感じでしょうか。

写真集『日本一小さな町の写真館』(平凡社)より

赤沢に住むおじいさんおばあさんにその頃の様子を伺ったことがありますが、宿だけで6軒(それ以上と話す人も)あり、朝昼晩の3交代で客を受け入れていたとか。子供たちも学校へ行く前にひと仕事。醤油をかけただけの素うどんを1杯50円で売り、それが朝から飛ぶように売れて、代金を入れるカゴが小銭でいっぱいになった…というのはたぶん終戦直後〜昭和30年頃の話。

写真集『日本一小さな町の写真館』(平凡社)より

昭和30年代になって早川町でも道路整備が進むと、登詣者の多くは登山口までバスやマイカーで乗りつけるようになりました。赤沢宿は衰退の道を辿りますが、平成5(1993)年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、観光地として再び光が当たるように。そして実は今も大勢の登詣者を支えています。それが名物のおにぎり。

何百人もの団体登詣になると、途中で食べる昼食はコンビニで調達…とはいきません。そこで今も一軒だけ残る江戸屋旅館さんが、登山口へおにぎり弁当を届けてくれるのです。前日の夜遅く、江戸屋旅館さんに集落の人たちが集まり、大量の米を炊き、手際よくおにぎりを握っていきます。山登りで汗をかくので塩は多め。

僕も27代目の女将・望月絹さんが健在だった頃、その様子を撮らせてもらいました。団体さんは早朝登り始めるので、たしか夜10時頃に作業を始めて、終わったのが午前2時か3時頃だったと思います。握る動作は一定のリズムで、しかも早く、出来上がるおにぎりの形はきれいに揃っていました。

左が27代目の女将・絹さん。大正13年生まれで、当時でたしか90歳くらい。でも仕事は本当に早かった。写真集『日本一小さな町の写真館』(平凡社)より
特徴的な玄関口にて撮らせていただいた、在りし日の絹さん。左に少しだけ写っているのが蔵で、明治の頃、当時まだ日本になかったトタンを英国から輸入して屋根を葺いたとか


風情漂う江戸屋旅館さんは、正確なことは不明なものの、1400年頃から存在していたらしいとのこと。幕末には最後の将軍・徳川慶喜公がお泊りになり、そのとき使ったお膳も残っているそう。今は28代目の女将・望月喜代子さんと、29代目の若主人・望月裕二さんがその伝統を守っています。団体客向けに大広間を襖で仕切る構造ゆえ、予約は一日一組限定ですが、機会があればぜひ(実は僕もまだ泊まったことがなく…いつか泊まりたいなぁ)。

明日の登詣に備える人たちが江戸屋さんへ。
写真集『日本一小さな町の写真館』(平凡社)より


赤沢の宿は一軒のみになってしまいましたが、今も身延山から赤沢を経由してお参りする方はいます。七面山の別当職(本来の住職である、身延山久遠寺の法主さまの名代)は身延山にたくさんある山内支院(◯◯坊と名がつく宿坊)の住職が持ち回りで務めますが、その就任時も自坊から丸一日歩いて敬慎院へ向かい、3年後に退任するときもまた歩いて自坊へ戻ります。

2023年3月、第124代別当に就くため敬慎院へと向かう、身延山武井坊・小松祐嗣住職(先頭から2人目)とその一行。3年ごとの別当交代では、山務を担うお坊さんの顔ぶれも変わる

僕は幾度となくそれに同行していますが、上り、下り、休息、そして途中にあるお寺への参拝を繰り返すと、ああ昔の人はこうやって巡礼路を歩いていたのだと実感します。

となかなか登山口に辿り着かないまま、文字数は七面山どころか富士山の標高も軽く超えてしまったので、続きは後編で。

早川町の観光に関するお問い合わせは、早川町観光協会(TEL0556-48-8633)までお気軽にどうぞ。県道37号沿いの南アルプスプラザには、スタッフが常駐する総合案内所もあります(9〜17時・年末年始以外無休)。


■写真・文=鹿野貴司
1974年東京都生まれ、多摩美術大学映像コース卒業。さまざまな職業を経て、フリーランスの写真家に。広告や雑誌の撮影を手掛けるかたわら、精力的にドキュメンタリーなどの作品を発表している。公益社団法人日本写真家協会会員。



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