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「性癖」というカンチガイ

「性癖」という言葉は、「性的嗜好」という意味に誤解されて、もはやそれがすっかり定着した感がある。
何しろ字面が「性の癖」だ。カン違いされても仕方ない気もする。

「ソッチ系の趣味を、一発で言える言葉はないのかな。『性的嗜好』とかじゃ長たらしいし‥‥‥」
きっと、多くの人がそんなことを、うすらぼんやりと思っていたのだろう。「性癖」はあっという間に受け入れられた。
「性癖」くんは、さぞ慌てたことと思う。

「えっ、ぼく性的な意味なんか全然ないですよ! 『性癖』とはそもそも、その人自身の癖や性格を指す言葉であって‥‥‥‥」

しかし性癖くんも日夜「性癖の秘密」「性癖を暴露!」などと引っ張りだこにされているうちに、まんざらでもない気分になってきて、勘ちがい人生をぬくぬくと生きることにしたのだろう。
未来の辞書には

「性癖【名詞】:性的な趣味や嗜好を指し示す言葉」

などと記されることになるにちがいない。

しかし、言葉の意味が変わってゆくのは、当然といえば当然だ。
「いちかばちか」などは、江戸時代では、やくざ者の使う、きわめて品のない言葉だったらしい。
若い女性が「いちかばちかやってみるわ」などと言うのを、もし江戸時代の人が聞いたら「あきれてものが言えねへ」と思うだろう。

昭和20年代には「気分だね」という言い回しがあった。

「おい、外務大臣が辞任したぞ」
「気分だね」

といった風に使われる。「何となく気持ち的には肯定する」といったような意味合いだ。

言葉は、生き物のように、変化してゆく。
環境に適応したものが生き残り、残りは淘汰されてゆく。絶滅したものが、いわゆる「死語」だ。
大流行してスポットライトを浴びたスター言葉たちも、死語となれば化石である。しかもかなり恥ずかしい化石だ。
試しに、何でもいいから、昔の流行語を呟いてみてほしい。場末のキャバレーで昔の一発芸人を見たような気まずさが漂うはずだ。

その一方で、みごと時代に適応し、生存競争を勝ち抜いた言葉もある。
「ダサい」は今やごく普通の言葉だ。田舎の不良が使うようなこんな言葉が、メジャーになるとは思わなかった。「ナウい」「マブい」などは死滅したのに、「ダサい」が生き残ったのは、対象をズバッと切り捨てる快感があるからだろう。意味が同じでも、「ダサい!」の切れ味に比べると「野暮ったい」はなまくら刀だ。

「ウザい」も現役だ。発生当初の80年代には「ウザったい」と言われていたが、その5文字ですらウザったくなって、「ウザい」に縮んだ。この言葉は、ストレスフルな現代社会で、1日にのべ500万回ぐらい口にされているであろう。

「エッチ」などは、いかにも古臭い言葉だ。何しろ

「スカートめくりじゃ〜!」
「いや〜ン、エッチ!」

などと、はしゃいでた昭和時代の産物だ。とっくに死滅したはずだったが、ふと気がつくと、ごく普通に使われている。実に不可解だ。死んだおじいちゃんが居間でテレビ見てたような気分だ。

「エッチ」のお仲間の「エロ」も、戦後のカストリ雑誌の時代からある大古株の言葉だが、寄る年並も何のその、若者文化にも自然に打ち混じっているから驚きだ。むしろますます若返っている感さえあり、「エロい」などと形容詞の分野にも進出している。

「ヤバイ」も、汎用性の高さから大人気だ。
良くてもヤバイ。悪くてもヤバイ。危険でも、おいしくても、面白くても、異様でも、とにかくヤバイ。トレンドブログの見出しなんて「○○がヤバイ!」しか言っていない。
あまりに使い勝手が良すぎて、もはや何を指しているのか判然としない。「あの人ヤバイ!」と言われても、逃げていいのか、ほめていいのかわからない。

「マジ」は、もう説明不要だろう。

「マジ!?」「マジで」「マジか〜!」「マジマジ」

2文字だけで会話が成り立つ。何と言う便利さ。もうマジなしでは生きていけない。

言葉はどんどん、ファストワードになっていくようだ。
ファストフードならぬファストワード。とにかく安い、言葉の100均だ。
趣きも、わびさびも、エレガンスも、一緒くたに丸めて「雰囲気がある」で済ませられる。ワインをどんぶり鉢で呷るような大まかさだが、飲めればいいのだ。

「感動」などという画数の多い言葉もなくなり「エモい」が一般化するのも、時間の問題だろう。小学生も読書感想文で

「『赤毛のアン』を読んでとてもエモかったです。おわり」

などと書くことになるだろう。

この流れは止められそうにない。文章の行間を読んだり、余韻を味わったり、含みをもたせたりする能力は、もはや我々には不要になりつつあるのだろう。「行間を読んで‥‥」などと言っても、「何も書いてないですけど?」と言われそうだ。

安くてカンタン。今の時代の言葉に求められるのは、これなのだろう。長持ちはしないが、便利でお手軽。巻紙に毛筆でしたためていた頃には、人は空気そのものから言葉を感じ取れるような、精妙な感受性をもっていたことと思う。しかし、そこから脈々と受け継がれてきたような言葉の表現は、今や絶滅危惧種だ。
きっとこれは、メディアやツールの発達と無関係ではない。

言葉と、それを伝える道具は、反比例の関係にあるのかもしれない。将来、スマホがおもちゃに思えるほどツールが発達した頃には、日本語のファストワード化はさらに進み、我々はカラスのようにカーカーカーと会話していることだろう。





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