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【感想】NHK 歴史探偵「白村江の戦い」を視聴しました

2023年11月29日(水)22:00~22:45、歴史探偵「白村江の戦い」を視聴しました。

<始まる前に>
久しぶりの古代編ですね。
何か面白い新説が出てくるか楽しみです。

<NHKのあらすじ>
白村江の戦いを徹底調査!
古代日本が海の向こうで戦った理由を追って現地の韓国へ。
戦場と思われる地では驚きの光景が…
飛鳥時代の歴史的戦闘の真相に迫る。


■謎の古代戦争 白村江の戦い

●スタジオで
白村江の戦いは、663年の飛鳥時代、中大兄皇子が大化の改新をしている最中です。
ただ、具体的なことはわかっていない謎の多い戦いです。
現地に行って実像に迫ります。
東アジアの状況は、中国は唐、朝鮮半島は高句麗、新羅、百済が争っていました。
百済対唐と新羅連合軍との戦いです。
白村江という川、古代日本でも最大級の戦争でした。
佐藤所長「自国のことじゃないのに」

■密接な交流

●古代日本と朝鮮半島の深いつながり
韓国南西部の咸平郡へ
・高田貫太さん(国立歴史民俗博物館)
・イ・ヨンチョルさん(大韓文化財研究院)
日本と朝鮮半島の歴史の見方が変わる発見があったのが、前方後円墳です。
「関わりを探るための重要な発見なんです」
「日本の独特なお墓な形とかんがえられていましたが、なぜ韓国にあるということでずっと研究が続いています」
1980年代から南西部で15基発見されました。
前方後円墳の副葬品が捩環頭太刀(国立光州博物館)
この飾りは、朝鮮半島では見られず、古代日本で流行していたものです。
日本に多い副葬品、どのような関係だったのでしょうか。
「非常に緊密な文化交流があったと考えられています」
多くの人やモノが行き来していた朝鮮半島、ボーダレスというか、国境は今の概念とは全然違うでしょう。
高田さん「海は隔てるというよりお互いをつなげる場としての役割が有ったのではないでしょうか」

●百済の都・扶余
当時の朝鮮半島は、百済、新羅、高句麗が争う三国時代です。
古代日本と百済とはどんな関わりがあったのでしょうか。
・ソ・ジョンソクさん(国立公州大学校)
あの大きい像は、百済の聖王という人物です。
聖王は外交を重視、日本にあるものをもたらします。
「仏教」を伝えたのが聖王です。
『日本書紀』にも百済の王からから仏教が伝えられたと記されています。
ヤマト政権が統一を推し進めている最中、仏教を利用して国を一つにまとめようとしたのです。
ソさん「百済が日本と親密にしていれば、新羅は攻められません」
しかし、660年事態が急変します。
百済が大軍の侵略を受けるのです。隣国の新羅・唐の連合軍です。

●百済滅亡
凄惨な様子が描かれています。
崖から身を投げる百済の宮女だと伝わります。
百済は滅亡し、古代日本に大きな衝撃を与えました。
日本は百済を救うため動き出します。

●スタジオで
森公章さん「倭系百済官僚といって親戚みたいな人が百済で役人として仕えていました」
佐藤所長「本当に近しい関係だったのですね」
近しい関係性は、白村江の読み方にも現れています。
佐藤所長「はくすきのえ」
今の教科書だと「はくそんこう」と書かれ、括弧付きではくすきのえでした。
白は漢字の音読み、村をすきと読むのは朝鮮半島、江は漢字の訓読みです。
唐、百済と日本それぞれの言葉です

■唐・新羅連合軍との戦いの備え

福岡県朝倉へ
・赤司善彦さん
石碑には「橘広庭宮」
660年、奈良・飛鳥に都をおいていました。
斉明天皇は二度も天皇に即位した経験豊富な君主です。
右腕として活躍したのが息子の中大兄皇子です。
大きな決断をした絵図、百済の人が助けを求めてきたという絵です。

●扶余豊璋
百済復興軍は新しい王を旗印に再建と援軍を日本に求めました。
斉明天皇と中大兄皇子は九州に宮を造成する決断をします。
赤司さん「遷都に近いことだった、国の命運をかけた決断でした」

■3つの課題
新羅と戦うには解決すべき課題が3つありました。
兵力、船、現地協力者の確保です。

●兵力
倉敷市にヒントが
二万(にま)という地名があり、2万人の兵が集まったことから付いたと伝えられています。
兵が多く集まったという遺跡が「箭田大塚古墳」です。
全国でも最大級の石室で、有力な豪族がいたと考えられています。
・藤原憲芳さん
「それだけの力を持っていました」
各地で急ぎ徴兵し、数万ともいわれる大軍を集めました。

●船
集めた兵を送るには大型の船が必要です。
・木村淳さん(東海大学)
平底船に着目したのではないかと思われています
朝鮮半島で古代から使われていた船です。
『日本書紀』安芸国で百済船が二隻建造された
「輸送能力に非常に優れていて使いやすい船でした」

●現地協力者
唐・新羅に抵抗を続ける百済人の武将が、鬼室福信です。
日本にいた扶余豊璋を返してほしいと申し出た復興軍のリーダーです。
ソさん「鬼室福信の指導力とカリスマ性のお陰で復興運動が成功していました」
鬼室福信の元へ扶余豊璋を送り届け、新しい王をいただき、すべての準備が整いました。

●スタジオで
佐藤所長「我がことのように感じて何としても百済を助けるんだという本気が伝わってきます」
森さん「斉明天皇は、中大兄皇子、大海人皇子のお母さんで、飛鳥を近代的な都市にすることを進めた」
「秋田、北海道の南まで日本の国土を広げようという、当時68歳でした」
数多くの女帝が誕生しています。
則天武后が即位、膳徳・真徳女王が即位していました。
なぜ同じ時代に女性が活躍したのか?
「男女を問わず国をまとめることができる人が天皇になるという時代でした」
「実力があったし、実力がないとなれず、官僚制度まだ途上ですから」

■なぜ負けたのか?

663年、古代日本は朝鮮半島の白村江に大軍を送ります。
百済復興軍が170隻の船に包囲されたため、水軍は敗北します。
記録によれば日本側が惨敗だと記されています、

●錦江
ずーっと干潟が広がっています。
西海岸は潮の干満が非常に大きい場所です。
差が大きいところでは約7メートルあります。
満潮だと船の出入りは容易ですが、干潮のときは難しかったでしょう。
『日本書紀』には、船の方向を思うように変えられなかったと記されています。
干潟で身動きが取れなくなったと考えられています。
しかし、現地の様子をよく知る協力者もいたはずです。

●鬼室福信の殺害
扶余豊璋が鬼室福信の謀反を疑い、殺害していたのです。
森さん「日本暮らしの長い扶余豊璋と鬼室福信の間に亀裂が生まれていたと考えます」
唐の水軍はどうだったのでしょうか?
実は3年前に干潟での戦いを経験していました。
戦場についてどの程度理解していたかが勝敗を分けました。
寄せ集めの日本軍は総崩れとなり、壊滅しました。

■敗北の影響

福岡県太宰府市にある「水城跡」です。
敗戦の翌年に水木を築いた長さ1.2km高さ10mの遺跡です。
唐軍の侵攻の防衛拠点として築かれました。
この土塁作りに百済人が関係していると考えています。
赤司さん「日本には発想がなく、百済の軍事的な戦略の影響だろうと考えられます」
日本に亡命した人もいました。
百済人の活躍の痕跡が滋賀県蒲生にあります。

●鬼室神社
鬼室神社です。
弟か息子の鬼室集斯を祀っています。
・田中俊明さん(滋賀県立大学)
鬼室と刻まれた石碑が残されていました。
鬼室集斯は、学職頭という官職に任じられたと『日本書紀』に記されています。
学問的な評価役割を与えられたと考えられています。
官僚の育成、改革に百済人の力が活かされました。
斉明天皇に代わりに天智天皇が国を率いました。
古代日本は中央集権国家に生まれ変わっていくのです

●スタジオで
佐藤所長「錦江、えーーって感じです」
干満の差が激しいのは共通しているのです
白村江の戦いの後に中央集権化が進んでいくんです。
「唐のような国家を作らないと東アジアで生き残っていけないとして、軍団として兵士を集める国の仕組みを作っていく」
「どの村に何人くらい働き手がいるかという戸籍を作った」
数十年後、遣唐使の記録『唐書』に、倭の名を改めて日本と名乗ったと記されています。
日本の大きなスタートが白村江だったと言えそうです
佐藤所長「海は隔てるものではなくつなげるもの」

ーーーおわりーーー

次回は「大坂の陣 真田信繁VS.徳川家康」12月6日(水)放送です。

■感想

『魏志倭人伝』に、「韓」は朝鮮半島中部以南の東海岸から西海岸に至る地域を占めるが、南は「倭」と接している。
とある通り、3世紀、朝鮮半島南側には日本の領地がありました。
狗邪韓国、その後の任那日本府です。

もちろん、3世紀の半島は帯方郡、楽浪郡が支配する中国管理の地です。
今の国と同等の国は存在せず、市や郡レベルのグループしかありません。

前方後円墳であると判明していても、その後の政治的、民族感情のためか三つの円墳にされた古墳、それが慶尚南道固城郡固城の中心部にある松鶴洞古墳です。(大平裕著『知っていますか?任那日本府』)

つまり、あちらの国では前方後円墳では「まずい事情」があったということであり、前方後円墳は日本の古墳だと認識していたということです。

さらに、朝鮮半島中央西岸の「竹幕洞祭祀跡」、これを韓国の学者は、百済ないし百済・倭・大陸王朝の三者による海上安全祈願の国際祭祀場であると主張していますが、これに似た祭祀遺跡として福岡県宗像市の沖ノ島祭祀遺跡が知られています。

2万年前のヴュルム氷期においてまだ朝鮮半島は無く、その後温暖化によって朝鮮半島が形成されていきますが、日本と朝鮮半島は陸続きではありませんでした。
その後、朝鮮半島には長く人が居ない時代が続き、ようやく人が住みだしたのは、約5千年前からでした。
南からは日本の縄文人が、北からも今とは違う民族が移住してきたのです。

1929年に発掘された釜山市影島区にある「東三洞貝塚」では、日本の縄文土器や九州の黒曜石が多数出土しています。

つまり、「交流」していたのではなく、「定住」していたのです。

白村江の戦いについては下記の記事を御覧ください。


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