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【感想】NHK 歴史探偵「秀吉 中国大返し」を視聴しました

昨日2021年6月9日(水)22:30~23:15、NHKの歴史番組「歴史探偵」10回『秀吉 中国大返し』を視聴しました。
この番組は、今まで放送していた「歴史秘話ヒストリア」の後番組です。
今回のテーマは、秀吉の「中国大返し」を徹底調査です。

■奇跡と称される行軍をどうやって実現させたのか?
秀吉はわずか10日で200kmを移動しました。
どうやってこれを為したのでしょうか。
秀吉の行軍を徹底調査します。

■陸から海から大実験開始
佐藤二朗さんによると、「なんとなくできそう」
2万人以上が行軍に参加していたとみられます。

関ケ原合戦図屏風に、川を渡っている様子が描かれています。
みんな軽装身軽な格好です。
実は、戦場が近づいてきたら、鎧や兜を着けたのでした。

甲冑を運ぶ人は、どれほど大変だったのか調査してきました。

■京都井伊美術館
部屋には鎧と甲冑だらけで、すべて本物です。
その中で、謎の箱を発見。
信長秀吉時代の箱です。
扉を開けると甲冑が入っています。
胴。佩盾、これは太ももを守る防具です。
頭形兜(ずなりかぶと)など、全部で10点ほどの道具が入っていました。

■スタジオで、すべて身につけてみました。
とにかく重い
ズシー 歩くだけでも大変
箱はどれだけの重さでしょうか、測ってみます。
82.3kgー64.2kg=18kg
18kgありました。

佐藤二朗さんに体感してもらうため、この箱に似せた小道具を借りてきました。
佐藤さん、背負ってみた。
「これは無理です!」
実際はもっと重かったそうです。
40kg運んだとも。
さらに、もっと大変な荷物を運んでいました。
兵糧つまり食料です。

■馬の天龍くんに協力してもらいました。
60kgを天龍くんに載せます。
合計160kgを載せます。
普通に歩けています。
速歩にならないぎりぎりの速度で歩行します。
行軍の足手まといにはならないようです。

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■坂道でも実験
船坂峠は、山陽道一の難所
おみごとスイスイと坂を登りました。
70kmを2日以内で移動しました。
これなら1日9時間で移動可能です。

しかし、馬の運搬では、大きな弱点がありました。
坂道を下っているときのこと
突然止まってしまいました。
足を滑らせていたのです。
荷物を積んでいる分、3倍滑りやすくなるのです。

■当時中国地方の天候はどうだったのでしょう。
天候の記録は残っていません。
気象の専門家を訪ねました。
梶川義幸さん
当時の周辺の天気と現代の気象データを使えば、少し推測することは可能かも。
1582年の天気の記録がありました。
中国地方にも梅雨前線がかかっていて、雨が降っていたのです。
馬で荷物を運ぶのは難しかったはずです。
さらに厄介なことに沼と姫路の間に、4つの川がありました。
つまり、馬では行けなかったということです。
大返しの時、水攻めで高松城は陸の孤島になっていました。
荷物を捨てたのでしょうか。
明智光秀との決戦が残っているので、荷物を捨てることはなかったのでは
というのが専門家の見解です。

■一気に解決する新説
船の設計士をしている播田安弘さんが主張するのが、船を利用したのではないか、という説です。

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ある港に注目したときのことです。
岡山県東部 備前焼の産地である来住家に太閤門が残っています。
ここを拠点としていた史料が残っていました。
船に武器を積めば軽装でいけたのです。
陸での移動は数々の検証をしてきましたが、船の可能性はあるのでしょうか。
瀬戸内海は西日本の物流の中心です。
陸上と海上に分けて輸送したことはあり得ます。

■播田さんと徹底検証することに
どれだけの速度で移動できたのかは謎に包まれています。
そこで、愛媛県漁業共同組合宮窪支所のみなさんに参加して実験してもらいます。
小早船を復元したもので実験開始です。
まずは速度測定
みなさんに船を漕いでもらいます
時速8.4km
いろいろなデータを集めました。
全長20m、28トンの荷物、時速5.5km
最後の検証を神戸大学で行いました。
内山雄介さんは、船のナビゲーションシステムの研究家です。
ナビゲーションするには、正確な潮の流れが必要です。
なんと再現可能だそうです。
月の引力に引っ張られる
1582年6月1日から13日をシミュレートします。
潮流がわかった!
沼と姫路を2日間で移動
姫路に向かう航路、8時間半で移動可能です。
明石→兵庫→尼崎も時間内で移動可能でした。
船で移動したという説、可能性は十分あると思います。

河合敦先生によると、新しい発見があるかもしれない、ということです。
史料からも裏付けるものがありました。
瀬戸内海は、海賊(水軍)が支配していました。
毛利氏の味方は600隻
秀吉はどのくらい持っていたのか
200ですと、毛利の3分の1です。
これでは、兵糧などを奪われる可能性があります。
秀吉の手紙が見つかっています。
それによると、高畠氏が味方についた事がわかっています。
それ以外も毛利から寝返るものが続出しました。
400から600隻は持っていたのではないでしょうか。
水軍の船を握るのは大きな鍵でした。
秀吉は陸でも万全な備えをしていました。

■ある城に鍵が
それは、兵庫城
千田嘉博 奈良大学教授
信長を迎えるために大改修して御座所を設けていました。
信長が秀吉に加勢するため進軍しようとしていたのです。
御座所は大返しで利用したとみます。
明石にも御座所があるのではないかということで船上城を調査します。
陸と海両方で交通の便が良いところで、船を上げていた場所がありました。
城に近づくと、川が暗渠になって続いています。
当時は、10mの川幅がありました。
海から船が通って行くと城の本丸があったのです。
すぐ近くまでたどり着け、山陽道が近くに通っていました。
秀吉があらかじめ準備していた御座所であったのではないでしょうか。

河合敦先生によると、制海権を支配すれば大返しもできたかもしれません。
御座所が敵討ちで偶然役に立ったとも考えられます。

賤ヶ岳の戦い柴田勝家のときもものすごいスピードで攻めたのも、小田原攻めも海と陸からせめて天下を取ったのも、この大返しの経験が活かされたのです。

■感想
今回はかなり意外だけど、核心をついた歴史新説だったのではないでしょうか。
大返しは船を使って実現していた。
新たな証拠が出てきそうな予感です。
こういう通説が入れ替わるときって、人間の思い込みもあって証拠を見逃している事がよくありますよね。
私がこのことを思い起こすのは、岩宿遺跡です。
民間の研究家であった相沢忠洋さんが発見した旧石器は、「日本には旧石器は存在しない」という思い込みから進展しませんでした。
当時はどういう時代かというと、1万年前に日本列島に人が住んでいたはずがない、というのが考古学では常識でした。
縄文人が最古の人類だと信じられていたのですね。
固定観念というのはなかなか抜けきらないものです。

岩宿遺跡についての記事


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