見出し画像

【感想】NHK 歴史探偵「家康VS.秀吉 どうする家康コラボスペシャル(後編)」を視聴しました

2023年8月30日(水)22:00~22:45、歴史探偵「家康VS.秀吉 どうする家康コラボスペシャル(後編)」を視聴しました。

<始まる前に>
今日のテーマは家康が天下を取れた理由だそうです。
関ヶ原の戦いの話でしょうか。

<NHKのあらすじ>
2週に渡ってお届けするどうする家康コラボSP。
後編は、家康が天下をとれた理由に迫る。
松本潤さんと井伊直政役の板垣李光人さんが登場。
歴史探偵で大河を深く知ろう!


■どうする家康コラボSP

●スタジオで
ゲストは徳川家康役の松本潤さんと井伊直政役の板垣李光人さん。
スタジオには、ドラマで着用している甲冑が登場。
松本潤さん「最初は金陀美具足でしたが、三方ヶ原で敗戦し変わっていきました」
板垣李光人さん「武田から引き継いだ甲冑で、赤着るとアガル」
秀吉は家康攻めの大攻勢を仕掛けますが、誰も予想しなかったことが起きるんです。

■家康成敗

●秀吉
「羽柴秀吉書状」打倒家康、家康を成敗する。決行は2ケ月後
・平山優さん
「こんどはそうはいかない」
●家康
真田昌幸が謀反、徳川軍は大敗、石川数正が裏切り出奔、戦どころではない状況に陥っていました。

●天正地震
天正13年(1585年)11月9日
●帰雲山
土砂崩れの跡が残っているほどの巨大地震でした。
戦に与えた影響は?

■天正地震を調べる

・松浦律子さん(歴史地震研究会)
史料を読み解くことで天正地震を調べます。
秀吉と家康それぞれの陣営の被害を調べます。

●秀吉側
「多門院日記」奈良の興福寺の記録です。
秀吉勢力下の奈良の様子が記されています。
寺の築地が方々崩れたとあります。
震度推定表には震度ごとに被害状況がまとめられています。
築地が倒れるは震度5弱

●家康側
「家忠日記」
岡崎では、前後の区別がつかなくなるほどの揺れだったとあります。
震度4くらいです。
地図に落とし込んでいくと地震の全体像が浮かび上がります。
秀吉の勢力圏、飛騨は、震度6弱
家康の勢力図は、震度3、4くらい、秀吉の領地の方が被害が大きかったことがわかります。
長島城は震度6強で全壊、大垣城は震度7で壊滅状態に陥ります。
ここで家康と他の大名たちが手を組めば秀吉も手が出ません。

■どうする秀吉?

●岡崎城の家康
秀吉から書状「上洛して家臣になれ」という厚かましい書状ですが、ある意図がありました。
平山さん「秀吉は、犠牲が出るよりも、うまく降伏させ天下一統にまい進させるほうが有利と考えました」
当然、家康はこの申し出を拒否します。
妹を家康に輿入れしてきます。
人質を次々送り付けてくるあべこべの秀吉に、家康は困惑します。
一か八かの大戦にでるか、家臣になるか?

■どうする家康

天正14年(1586年)10月27日大坂城
決断は、秀吉に従うことでした。
小牧長久手から続く二人の戦いは、ここに終結したのです。

●スタジオで
佐藤所長「天災の影響を受けるのか、ということですね」
河合先生「地面の割れ目から液状化現象が起こり、40日感余震が続きました」
河合先生「親族まで送ってそれでも戦うつもりか。一か八かの交渉でした」
佐藤所長「それでも俺と戦うつもり?、といっているようなものです」
松本潤さん「もしこのタイミングで家康と秀吉が戦をしていたらどうなっていたのですか?」
河合先生「最終的には徳川が負けて滅んていた可能性が高いでしょう」
さて、家康は国替えを命じられます。
関東へ行けと命じられます。

■家康時代の江戸はどんな場所

皇居外苑二重橋
・谷口榮さん(葛飾区教育委員会)
ブラ歴史探偵です。
潮見坂とあります。
霞が関は、当時、間近に海が見える坂だったということです。

●東京・武蔵野市
東京の高低差がわかる模型です。
プロジェクションマッピングで現在よりも海が内陸に入り込んだ江戸の姿を写します。
家康の目の目に広がっていたのは湿地でした。
つまり、膨大な湿地帯が広がっていました。
どうする家康?

■江戸の湿地をどう克服したのか

東京都江東区の小名木川、家康が築いた運河です。
しかし、運河と湿地の改良にどのような関係があるのでしょうか。
ある工夫を施していました、両側に掘った土を盛ると、少しずつ土が乾燥、硬い地盤ができます。
運河を江戸中に張り巡らせた家康、家臣団が一団となって土地の改良に励みます。
谷口さん「運河は一石二鳥、水路を確保し発生した土を造成し街づくりを行っていました」
土地改良と経済発展、江戸の礎はこうして気づかれたのです。

●スタジオで
板垣李光人さん「今いる東京を殿が築いてくれた」
佐藤所長「戦とは全く違う要素で成功しているのはすごいです」
河合先生「新しい土地でちゃんと支配できない大名は切腹させられました」
江戸の町づくりで使われた道具(レプリカ)が登場
河合先生「大量に土を掘れる刃がついているのがこの時代の特徴です」
松本潤さん「家康はものをつくることが好きだったんでは?」
佐藤所長「湿地帯を見て、実は腕がなっているのかもしれない」
さて、秀吉は九州で巨大な城を築いていました。

■最終ラウンド

天正20年(1592年)正月・岡崎城
中断を余儀なくされます。
肥前・名護屋に来いという命令でした。

■名護屋城(唐津市)

・宮崎博司さん(学芸員)
肥前名護屋城です。
残された石垣からスケールの大きさが伝わってきます。
天守台に登ると、海の先に答えがありました。
190km先の近い距離に、朝鮮半島がありました。
秀吉側近の書状
「朝鮮と明を滅ぼし天皇を北京に移す」
唐入り、東アジアにまたがる巨大帝国を作ろうとしました。
朝鮮出兵は30万の軍勢が3年にわたって繰り広げられました。
名護屋城には150を超える大名が集結しました。
家康はここで得たある経験が天下取りに繋がっていきます。

名護屋城天守跡 Wikipedia

●名護屋城
佐賀県立名護屋城博物館
黄金の茶室です。
朝鮮出兵では大軍勢をいくつかに分け、順番に送り込む計画が立てられます。
秀吉は大名たちを豪華絢爛な黄金の茶室に招きます。
茶会をすることで権威を見せつけます。
これにヒントを得た家康は質素な茶室を作ります。

●その壱:誰でも受け入れる
東北の大名・津軽為信にはある悩みがありました。
他の大名たちに田舎者とからかわれ、交流を断られました。
だれでも受け入れ仲間に引き込んでしまうのが家康流です。

●その弐:大名同士の仲裁
東北の大名、南部信直
実は南部と津軽は犬猿の仲、家康はこの二人の仲裁を買って出ます。
・柴裕之さん
「徳川殿は頼れる存在だ、というイメージを植え付けました」
茶会を行った目的は、大名との信頼関係を築くことに有りました。

●苦戦の知らせが
病に冒されていた秀吉は戦の継続を命じます。
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が62年の生涯を閉じます。
真っ先に取り掛かったことが兵の引き揚げです。
「徳川家康書状」朝鮮の戦況を報告されたのは潔いこと、すぐに撤退するべきです。
戦に疲れた大名たちの心をつかみました。

●関ヶ原の戦い
全国の大名が家康に味方し、天下をつかんだのは秀吉から学び越えることで成し遂げられたものでした。

●スタジオで
松本潤さん「次に何をやるかを秀吉が弱っていく様をみてわかっていたのではと想像します」
河合先生「秀吉から学んでいます。太閤検地で自由に配置換えをしたのが、家康は江戸幕府の統治方針になっています」

ーーーおわりーーー

次回は「信長・秀吉・家康 天下人の趣味」9月6日(水)放送です。

■感想

関ヶ原の戦いかと思いきや、朝鮮出兵が出てきました。
朝鮮出兵というより、家康による名護屋城へ集合した大名の懐柔策ですね。
家康は朝鮮出兵や秀吉の様子を冷静に見ていて、天下統一への布石にしようと目論んでいたことが分かります。
家康はその後、鎖国に向かい、海外進出は害悪という評価でしたね。
日本の国造り優先で260年の天下泰平を築き上げたのは秀吉という反面教師がいたから達成出来たのかも知れません。
そして、天正地震が秀吉の勢いを削いだというのも、何かで読んだ記憶があります。
新しい学説ではないけど、面白い内容でした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?