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【感想】NHK 歴史探偵「桜田門外の変」を視聴しました

2024年4月10日(水)22:00~22:45 歴史探偵「桜田門外の変」を視聴しました。

<始まる前に>
井伊直弼の桜田門外の変ですね。
どんな新説が登場するのか楽しみです。

<NHKのあらすじ>
桜田門外の変。新史料が発見され、従来のイメージが大きく変わろうとしている。
井伊直弼暗殺にかかわったピストルと事件直後に起きた内戦の危機。
幕末の大事件を調査する。


■プロローグ

●スタジオで
佐藤所長「超有名な事件で、井伊直弼が暗殺されました」
新たな資料が見つかり、見方が大きく変わりました。
1860年3月3日、大老の彦根藩主・井伊直弼が水戸藩の浪士たちに暗殺されます。
河合先生「初めて調査に行きました」

■事件現場で見えてきたもの

●桜田門
当時から場所は変わっていません。
井伊家の屋敷が、距離にして400m桜田門の直ぐ側にありました。

●井伊直弼の屋敷跡
安政7年(1860年)3月3日、天気は大雪、籠に乗って江戸城に向かいます。
彦根藩の行列はおよそ60人、襲撃者は18人、彦根藩の3分の1に届きません。
井伊直弼は、新心新流の居合の達人で、すごい腕前でした。
不可能に見える暗殺計画をどのように実行したのでしょうか?

●襲撃犯はどこにいた?
水戸浪士には身を潜める方法がありました。
大勢の見物人が集まり、見物人のための出店までありました。
襲うには格好の場所だったのです。
警視庁の別名を桜田門といいます。
警視庁の眼の前で襲撃されたと言います。

●午前8時頃
彦根藩行列が見え、水戸藩士のリーダー関鉄之介が、行列を遮るため仲間に指示を出しました。
直訴状を差し出します。
一発の銃声が鳴り響きます。
それを合図に一斉に斬りかかる浪士たち。
彦根藩の行列に異変が起こります。
次々に逃げ出しました。
井伊直弼の籠は置き去りにされました。
「彼らはアルバイトだったので、命を捨てるまでの覚悟はありませんでした」
人材の斡旋業者のリストまでありました。
60人の行列のうち、半分が逃走し、26人にまで減りました。
ところが、彦根藩の人たちは次々と倒されていきます。
寒さで手がかじかみ、刀が抜けず一人ひとり斬られました。

●スタジオで
佐藤所長「複合的な理由が重なったんですね」
河合先生「3月3日は上巳の節句で、大名が将軍に挨拶すため江戸城に行かなければならない日でした」
桜田門外の変がおきた背景を見ていきます。
1853年、ペリー黒船来航
1854年、日米和親条約締結
・開国派:井伊直弼
・攘夷派:徳川斉昭
河合先生「徳川斉昭を井伊直弼は永遠に謹慎していなさいと水戸に封じ込めています」
だから桜田門外の変が起こるのです。
佐藤所長「居合の達人で、そんなに簡単にやられるのが疑問です」

■新史料発見

●鳥取県立博物館
・来見田博基さん
『安達清一郎日記』水戸藩士を匿った際の聞き取り記録です。
襲撃のリーダー・関鉄之介
事件の2ヶ月後に書かれ、信憑性の高い記録です。
「ピストルの弾が籠の中の人物の胸先にあたって亡くなった」
なんと、井伊直弼は最初の銃撃で命を奪われていたのです。
居合の達人が抵抗もせず亡くなったのもこれで理解できます。
非常に新しい発見として注目されています。
関本人は鉄砲を撃ったとは言っていません。
実行犯の存在が居たと考えられます。

●実行犯の存在
大阪市東成区
・澤田平さん(古式銃研究家)
桜田門外の変で使われた銃と鑑定しています。
木箱の裏に、森五六郎の名
直訴状を掲げた浪士で尋問書『細川家書取』には、2丁のピストルが持ち込まれていたことになります。
「森五六郎が鉄砲を籠に向けて撃った」と記されています。
桜の花が刻まれた装飾、日本で作られたものでした。

●コルト1851ネイビー(アメリカ製)
日本に持ち込んだのはマシュー・ペリーです。
『ペリー提督日本遠征記』
20 army pistols, Emperorへ献上したと書かれています。
幕閣、当時の幕府の高位に贈呈しています。
それを見本に水戸家で作られた、それが何らかの形で森五六郎にわたったとみられます。

●国内で生産できたのか
水戸市
・永井博さん(茨城県立歴史館)
常磐神社義烈館
斉昭の時代に作られた大砲です。
水戸藩は、斉昭の元で攘夷のために軍備を増強していました。
銃を作っていたのは矢倉方という部署でした。
ペッパーボックス拳銃という連発銃、葵の御紋が水戸徳川家で作られていたことを示しています。
「小銃などの武器の販売を許可する」
矢倉奉行の下役である森山という人物が参加していて、そういったルートから入手していたのかもしれません。
銃を持つ森山繁之介の姿が描かれています。
新しい時代の暗殺事件だったのです。
関鉄之介、森五六郎、森山繁之介すくなくとも3丁の拳銃が持ち込まれていたことがわかりました。

●スタジオで
佐藤所長「侍同士の切り合いのイメージが覆されました」
水戸藩では、ピストル以外にも様々な武器が作られていました。
戦車です。
安神車(あんじんしゃ)、牛で引いていた牛に鎧をつけていました。
佐藤所長「銃はもっと持ち込まれた可能性はあったのですか?」
河合先生「その可能性はありました」

この事件、もう一つのある特徴がありました。
神職、鉄砲鍛冶が加わっていました。
河合先生「厳しい処分に憤慨して自分たちも立ち上がろうと武士ではないのに刀を持ちました」

■桜田門外の変の後

日本は内乱の危機に

●明治大学博物館
・落合弘樹さん(明治大学)
宮崎県延岡藩『内藤家文書』
井伊直弼の弟が藩主を努めていました。
狼藉者が襲ってきて井伊様が9人ばかり取り押さえた、と書かれています。
なんと井伊直弼は殺されておらず、襲撃犯を撃退したとあります。
これは、幕府の公式の情報でした。

●なぜ生きていることにされたのでしょうか?
最も頭を悩ませていたのは徳川幕府でした。
幕府の屋台骨を支える両藩のぶつかり合う前代未聞の一大事でした。
彦根藩のお取り潰し
「武家諸法度」御家断絶というルールがありました。
突然命を奪われたので、跡継ぎを決めていなかったのです。
落合さん「藩はお取り潰しになり、絶対に復讐する、それをまず抑える必要がありました」
幕府は忠臣蔵の再来を恐れました。
幕末の忠臣蔵を未然に防ぐために、井伊直弼は生きていると触れ回り、跡継ぎを決めさせる策に出たのです。

●井伊直弼の墓(豪徳寺)
桜田門外の変は3月3日ですが、命日は3月28日となっています。
次男・井伊直憲が彦根藩主に就任、取り潰しを免れたのです。

●仇討ちの危機
彦根藩は主君の仇討ちに燃えていました。
●滋賀県彦根市
・渡辺恒一さん(彦根城博物館)
彦根藩VS水戸藩
内乱が起きる恐れがありました。
幕府が用いたのが最後の手段、一通の書状が届きます。
14代将軍・徳川家茂の書状です。
「忍び難きを忍び」将軍の願いが綴られていました。
彦根藩はギリギリのところで踏みとどまります。
渡辺さん「幕府の中心となって国家を守らなければならないという自覚は強かった。報復の行動に出ないということになったと思われます」
さらに5か月後、徳川斉昭が病死します。
次第に静まっていきます。

●スタジオで
佐藤所長「ぎりぎり収まったということですね」
河合先生「ともに30万石を超える大大名でした」
行列に参加した藩士に対し処分がおります。
・死亡は処罰なし
・重傷 流罪
・軽傷 切腹
・無傷 斬首
河合先生「6年後、徳川慶喜は徳川斉昭の息子さん、彦根藩もがっかりして新政府に味方しました」

ーーーおわりーーー

次回は「平安のスーパースター空海」4月17日(水)22時放送です。

■感想

新しい発見が面白かったです。
井伊直弼が、鉄砲で討ち取られていたとは驚きです。
でも、最期は首を撥ねられているようなので、鉄砲が致命傷になったとは確証はないようです。
やっぱり、きっかけは「ペリー来航」ですか。
石原莞爾は、極東軍事裁判において、判事に歴史をどこまでさかのぼって戦争責任を問うかを尋ね、「およそ日清・日露戦争までさかのぼる」との回答に対し、「それなら、ペリーをあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満洲も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」との持論を披露した。(Wikipediaより)
痛烈な皮肉ですね。
ぺりーが出てくるたびに、この石原莞爾の言葉を思い出します。


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