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【感想】NHK 知恵泉「承久の乱 “武士の時代”の確立」を視聴しました

昨日2021年9月21日(水)22:00~22:45、NHK 知恵泉「承久の乱」を視聴しました。
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先週に続いて「承久の乱」ということで視聴しました。
番組は新たな説が出てくるというものではなく、智略というものが学べます。
なので、出てくる歴史事象は標準的で通説に従っているという印象。
人間像を深堀りすることに意味あり、といったところでしょうか。
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ゲストはサッカー女子監督の佐々木則夫さん
帝京大学准教授・佐伯智広先生
3時のヒロイン・福田麻貴さん

鎌倉時代は激動の時代でした。
1192「いい国作ろう鎌倉幕府」は知らない人はいません。
・佐伯智広先生
実はもう古い!
1192年は源頼朝が征夷大将軍になった年
1183年は日本の東半分を管理した年
1185年は守護地頭を設置を認められた年

1183年にしろ1192年にしろ、頼朝が朝廷から何かを認めてもらった、認めてもらわないと何もできない不安定な時代ということでした。

■承久の乱
首謀者だったのが後鳥羽上皇です。
さぞかし雅な方と思ったら、笠懸や相撲が得意な武闘派で怒りっぽい、きにいらないとやたらと処罰したとか。
武力を背景に設立された鎌倉幕府、後鳥羽上皇は悩みのタネでした。

1218年、幕府から後鳥羽上皇に意外な申し入れがありました。
実朝の後継者を天皇家から迎えたいという提案です。
幕府内では御家人の間で内紛が続いていました。
天皇の権威によって、安定し発展する、と考えていました。
これは後鳥羽上皇にとってもチャンスでした。
『愚管抄』上皇は子供を後継者にすると約束します。
しかし、なんと実朝が暗殺されてしまったのです。
暗殺者は実朝の甥・公暁、後継問題が原因でした。
焦ったのは義時です。源氏の血筋が絶えてしまいます。
後継者を早く送ってほしいと催促の手紙を送ります。
上皇側は「向かわせるが今すぐのことではない」、約束に答えようとせず、摂津の荘園の地頭職解任を幕府に要求するなど、幕府に揺さぶりをかけてきたのです。
どうする?鎌倉の武士達
■1つ目の知恵
「巨大な敵には総力戦で思いを一つに」
上皇の要求には従わない、という結論に達しました。
・関幸彦さん
原理原則に立ち返る。御家人制が基盤になっているので、地頭職を理不尽な形で否定してしまえば幕府の首を締めることになる。

■御家人という存在
鎌倉幕府に勤める武士を御家人と呼びます。
御恩=土地の所有権が認められます。
奉公=地頭の権利は半永久的、武士は奉公をおこないます。

Noを突きつけられた上皇は怒りに震えます。
さらに刺激する出来事、京都で御家人が謀反騒ぎを起こしたのです。
大内裏に燃え移り、宝物が消滅してしまいました。
■三浦胤義
承久三年(1221年)、京都にいる幕府側御家人を籠絡
味方に引き入れたのが三浦胤義という御家人でした。
上皇に従うことを拒否していた伊賀光季を容赦なく襲撃、承久の乱がはじまりました。
上皇側は、鎌倉の御家人達に義時を討ち取らせようとします。
義時追悼の院宣を発し、使者・押松を派遣します。
三浦胤義の兄・三浦義村に期待していました。
義村は、その場で返事はせず、使者・押松を帰らせます。
真っ先に幕府・義時には「すぐに捕まえるべき」と報告します。
弟には味方せず、義時に忠誠を誓いました。
なぜ味方につかなかったのでしょうか?

・関幸彦さん
チームワークの力で立ち向かわないとこの危機は打開できないと考えた。
上皇の命令よりも、御恩と奉公の関係を重視したと考えられます。
義時は、使者を捕まえるように命令、御家人に院宣が届く前に捕まえます。
武士にとって、朝廷や公家が支配した時代は悪い記憶しかありませんでした。

■北条政子の演説
そして、最後の決断のひと押しになったのが北条政子の演説でした。
”頼朝様が幕府を開いたおかげで、皆の官位も収入も上がった
その恩義は山よりも高く海よりも深い”
政子の演説を聞き、御家人たちの幕府を守りたいという気持ちは最高潮に
総力戦で後鳥羽上皇と戦うことを決めたのです。

・佐々木さん
イングランドに負けた後、ドイツとやることになったのです。
うちにも政子がいた
澤穂希さんと山郷のぞみの二人で考えた
「自分を信じて仲間を信じて失敗を恐れずがんばろう」
この言葉で不安が解消されました。
延長戦のすえ、ドイツに勝てました。

鍵となる二人、三浦兄弟が出てきました。
・佐伯智広先生
”三浦胤義は自分の思いを伝えれば兄だってわかってくれるはず
三浦義村は幕府の運営に携わっているんだ。
後鳥羽上皇には大誤算だった。
話の持って行き方がまずいですよね。
当日いきなりこういうことをやるから従えでは
幕府の側に御家人はついてしまいました。
自分の正しさに自身がある人ほど陥りやすい"

・佐々木さんの知恵
「みんなが幸せになる」という思いを指揮官が持つ
・福田さんの知恵
すっきりしない人がいるときは小さいうちに話し合って解決する

■どう戦う?
御家人による合議制で意思決定していました。
ほとんどの意見は足柄・箱根の2箇所の関所で迎え撃つという作戦でした。
なるべく穏便に済ませたいという気持ちも残っていました。

■2つ目の知恵
「勢いをつくり迷いを断て」
・大江広元
大江広元は、京都の官僚の出身でした。
朝廷と交渉を行う人材として頼朝に登用されたのでした。
幕府においてナンバー3の重心となっていたのです。
『吾妻鏡』
東国武士が心をひとつにしなければ、関を守ったまま日を送ることは逆に敗北の原因になるだろう。
運を天に任せて早く軍隊を京都に出撃させるべきだ。

・関幸彦さん
今しかないでしょうという判断
弱点を見抜いていた。
関東の武士には未知なる世界への恐怖感
無類の強さを発揮するが、長期間守勢に回れば付け入られると弱い

政子もすぐに京へ進軍すべきという意見でした。

■承久の乱が勃発
3日後、京へ出陣、わずか18騎でした。
有力御家人が続くと、総勢19万騎に膨れ上がりました。
勢いづいた武士たちからは迷いは吹き飛んでいました。
東国の武士が攻め込んで来るという情報は4日後の5月26日でした。
後鳥羽上皇は、自分に刃向かうとは考えていなかったのでした。
15万の兵を2万の兵で迎え撃つという圧倒的な不利な状況
宇治川の戦いで幕府軍を迎えました。
鎌倉軍は、朝廷軍を撃破
大江広元の読みどおりに運んだのです。
後鳥羽上皇は降伏
後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇は流罪となり、幼い仲恭天皇は廃位されました。
六波羅探題を設置、幕府は朝廷を監視下に置きました。

幕府の支配が日本全体に及びました。
武士の世が確立したのです。

・佐伯先生
政子の言葉でまとまった。
後鳥羽上皇の楽観主義が原因でした。
朝廷が次の天皇を決めるとき、幕府の許可が必要になります。

■今日の知恵:「勢いをつくり迷いを断て」
アウトサイダーの視点の大切さ
大江広元はなぜアドバイスができたのか?
・佐伯先生
大江広元は経験で知っていました。
後鳥羽上皇に時間を与えると効果を表してしまうかもしれないので、早くしないといけない
守勢にたって考える時間を持ってしまうと、余計な考えがうまれてしまう
戦闘という明確な目標のもと、行動をさせたほうがいいだろう

・佐々木さん
自分が迷うとみんなも迷う

・福田さん
士気の高さは数値化できないので、感情が戦では重要だと思いました。

・佐々木さん
私利私欲のリーダーはありえない

ーーーおわりーーー

■感想
保元・平治の乱で貴族が没落、武士が台頭してきますが、武士の確立をダメ押ししたのが承久の乱だということがよくわかりました。
組織としてまとまっていたのは、策略家で源氏の棟梁・頼朝とまとめ役の政子というコンビが絶妙だったんでしょう。
少し早く逝ってしまいますが頼朝がいなくなり、危機感が強まることで結束力もより固まったんでしょう。
義時、大江広元といった部下にも恵まれて鎌倉幕府が成長していきます。
承久の乱という内乱は鎌倉幕府の勝利という結果です。
勝因は、番組のとおりでしょう。
どちらに民心がついたかといえば、武士側だったのでしょう。
平安後期になると、貴族は腐敗し何もできませんから。
貴族の部下としての武士に戦闘能力があるとは思えません。
後鳥羽上皇も裸の王様状態だったんでしょう。


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