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【感想】NHK 歴史探偵「戊辰戦争と会津」を視聴しました

2024年5月29日(水)22:00~22:45 歴史探偵「戊辰戦争と会津」を視聴しました。

<NHKのあらすじ>
戊辰戦争を会津の視点から徹底調査!
見えてきたのは、奥羽越列藩同盟の確かな軍事力と勝利の可能性。
運命の分かれ道は何だったのか?
知られざる会津復興の物語にも迫る。

■プロローグ

●スタジオで
佐藤所長「会津は激戦地の一つで悲劇が生まれたというイメージです」
なぜ会津の戦いが起きたのか?
慶応4年1月新政府軍と旧幕府軍で鳥羽伏見の戦い
この戦いに敗れた会津藩は朝敵となり、新政府軍は江戸に進軍、江戸城は無血開城となります。
会津藩は恭順の意思を示しますが、会津藩の討伐を主張します。
強力な味方、奥羽越列藩同盟が守ろうとし、新政府軍に対抗しようとします。
主な敗因は、同盟軍の戦法や武器が旧式だったためと言われていますが、同盟軍にも確かな力があったことがわかってきました。

■同盟軍のイメージが変わる

●朝日山(新潟県小千谷市)
・淺川道夫さん(日本大学)
・白井雅明さん(小千谷市)
戦いの痕跡が残る150年間手つかずのところで調査しています。
同盟軍の陣地跡です。
塹壕という自分たちの身を守るための防御設備です。
塹壕がどのように使われたかが分かれば同盟軍の強さがわかります。
横4m、縦1m、深さ60cm、こんなに小さいものでびっくりです。
少ない時間と労力、半日で射撃用の壁を作れたといいます。
こうした塹壕が40箇所見つかっています。
ある画期的な戦いをしていたと推測します。
敵の動きに合わせて戦う、「散兵戦法」をとっていました。
海外から導入した最新の戦法です。
散らばるように移動して戦う、兵力の少なさをカバーできる優れた戦法でした。
さらに、別の要素も見えてきました。
・川上和雄さん
朝日山で使われたとみられる銃弾です。
イギリス・エンフィールドのライフル銃の弾です。
つまり、ほとんどがこの形のもの、つまり同盟軍も新式の銃を使い、大量導入していました。
外国のある武器商人の記録によると、14万ドル、10数万両に及ぶ大金で売っていました。
・保谷徹さん(東京大学)
試算すると、約1万丁くらい、大量のライフル銃が用意できて、運用できるようになっていました。

■とっておきの策

●市立米沢図書館
・青木昭博さん(市立米沢図書館)
「戊辰資料」
熊本藩が会津藩と手を組み挙兵する計画がありました。
・中武敏彦さん(仙台市博物館)
「盟約書」大事件は列藩衆議(集議)し公平の旨に帰すべし
大きな事件が起きたときは、同盟諸藩の話し合いで公平に決めるということ。
熊本藩が動こうとしたのは理念に共感したためといえます。
実は、この頃、新政府に対する不満が高まっていました。
「新発田藩事実記録 京都之部」
薩摩など一部の藩が権力を牛耳っていると指摘、衆議に基づく政治を行うよう強く求めます。
同盟軍は、味方を増やす戦略をとりました。
中武さん「西南諸藩と連合が成功していれば、薩長・長州軍を挟み撃ちにでき、勝てた可能が出てきます」

●スタジオで
佐藤所長「熊本藩が味方する可能性があったのはうなずけました」
河合先生「疑問を持っている藩もありました。ひっくり返った可能性もありました」
新潟の長岡藩が持っていたのがガトリング砲、強力な武器で2つ持っていました。
河合先生「新政府側を奇兵隊を同盟側が圧倒してしまい奇兵隊の指揮者を戦死しているほどでした」
白河や二本松で敗戦し、会津藩は新政府軍に取り囲まれ、1ヶ月後降伏しました。
どうして敗れてしまったんでしょうか?

■会津藩の敗因

●鶴ヶ城
・近藤真佐夫さん(会津史学会)
若松城天守閣郷土博物館へ
敗因にせまる手がかりは、会津藩の領地にあると言います。
いくつものルートが存在、敵の侵入を防ぐため兵力を分散し防衛します。
弱点は一箇所が崩れると、城を守りきれないため、城下に戻らなければなりません。
鶴ヶ城は大軍に囲まれ勝ち目がありません。
しかし、母成峠を奇襲により突破されてしまいます。
各地の兵は城下まで撤退、米沢藩などの援軍が来れば違ったのです。
防衛戦略の崩壊が大きな敗因だと考えられていました。
・淺川道夫さん
母成峠を突破された後の城に残った兵の対応です。
防衛ラインを維持できたのではないかというのです。

■シミュレーションで検証

日本大学へ
・古市昌一さん(日本大学)
・粟飯原萌さん(日本大学)
・川上智さん(元自衛隊幹部)
・淺川道夫さん
街の構造を巧みに利用することだと言います。
城下にバリケードを設け、屋敷や塀に隠れながら敵を待つ戦法です。
会津の兵力1000、新政府は2500
会津の弾薬は50万、新政府は75万

●シミュレーション開始
新政府軍の前に現れたのがバリケード、その先、十字砲火が最強の守りです。
新政府軍は数で押切り、城に迫ります。
ところが、会津には秘策が残っていました。
城に陣取る銃撃隊がそこに敵を誘い込む狙いもありました。
新政府軍はついに撤退、会津軍が敵を押し返しました。
シミュレーション10回とも新政府軍を撤退に追い込みました。
実現できていれば、米沢藩から援軍が来た可能性もあります。

●取れなかった原因
ある人材の不足を指摘します。
淺川さん「指揮官がうまく育たなかった、時間がなかった可能性があります」。
指揮官不足は当時会津藩でも危惧されていたことでした。
薩摩・佐賀藩が指揮官の養成に力を入れる中、会津藩は遅れを取っていました。
・白石烈さん(宮内庁書陵部)
幕末の京都で会津藩の公用方に所属していた藩士の名簿です。
公用方とは、幕府や朝廷と折衝し、情報集や根回しを行う外交官のことです。
白石さん「二桁行けば多いのですが、会津藩の場合36人、多くの藩士を配置していました」
背景にあるのは、松平容保が京都守護職に就任したことでした。
多くの人材を公用方に割り当てる必要がありました。

●敗因は他にも
・友田昌宏さん(防衛大学校)
同盟軍が掲げた衆議に潜む意外な落とし穴
「復古記」奥羽烈列藩同盟の原案
列藩の衆議によって物事を決する、ただし戦争担った場合は、大国の号令に従うべし
しかし、反対意見が出ます。
一部の藩に権力が集中することを恐れたためです。
しかし、緊急事態には適さないものになっていました。
「大国の仙台藩になりますが、藩と藩のメンツで反発があったりしました」
戦況の悪化、自分たちの存亡が最優先という本音が露呈、同盟を離脱する藩が相次ぎました。
会津藩は孤立、窮地に陥りました。

●旧滝沢本陣
・横山周平さん(旧滝沢本陣)
藩主・松平容保が陣を置いた場所
新政府軍から放たれた銃弾の跡です。
明治元年(1868年)会津藩は降伏、戦いは終わりました。

●スタジオで
佐藤所長「理念が仇になってしまった」
河合先生「戦いとなると指揮命令系統が不可欠。同盟側の衆議は早すぎたのかもしれません」
明治6年に撮影された城下町の写真です。
元々屋敷が立ち並ぶ一等地でしたが、明治20年を過ぎても復興できませんでした。

■復興に希望の光

●郡山市歴史資料館
・徳竹剛さん(福島大学)
「岩越鉄道布設請願書類」
鉄道は国の発展を支える近代化の象徴でした。
「明治20年に東北本線ができていて、会津と東北本線を繋いでその先にものが運べる期待をしていました」
請願書には1万人以上が署名、国に陳情しましたが、その願いは叶いませんでした。
国家にとって必要性が低いということで、後回しになりました。
ある人物が立ち上がります。

●福島県知事・日下義雄
日下は、大胆なアイデアを提案します。
政府に頼まず、私設鉄道を布設しようと考えました。
鉄道局が試算した金額が700万という数字、約1400億円です。
日下が行ったのは出資を募る演説です。
年間80億円の利益が出ること、出資者のメリットを力説します。

●出資した子孫
会津若松市
・高瀬かづ子さん(漆器店)
高瀬さんの家は江戸時代から漆器店を営み生計を立ててきました。
柱に残る刀傷、新政府軍によってつけられたといいます。
戊辰戦争でどうゆうことがあったのか忘れるな、復興への強い思いがあったからだといいます。

●日下の訴えが実る
福島県立博物館
「岩越鉄道株式申込人名録」
・栗原祐斗さん(福島県立博物館)
1株、1株と並んでいます。
「少なくてもいいから鉄道を引くところに参加したいという人がいたということです」
1株は100万円です。
明治30年(1897年)着工
およそ二年、会津に鉄道が開通明治32年(1899年)
会津は全国に繋がり賑わいと誇りを取り戻していきます。

●スタジオで

佐藤所長「会津の人たちの力強さ、不屈の精神を見ますね」
伝統的な産業の継承にも一役買っていました。
地場産品、会津塗、会津本郷焼、日本酒です。
漆器と本郷焼の生産額がおよそ3倍、日本酒も流通量が2倍になりました。
河合先生「郷土で行きている方の歴史を知るのも大切です」

ーーーおわりーーー

次回は「平安京ダークサイド」6月5日(水)22時(再)放送です。

■感想

明治維新はあまり詳しくないのですが、戦乱が起こった背景には、海外列強の影響があったというのが私の考えです。
ペリーが日本にやって来たことで、アメリカ、フランス、イギリスなどの列強が日本を配下に治めるために、仕掛けてきた結果が戦乱につながったと考えます。
ガトリング砲やエンフィールド銃が会津藩などでも使われていたということは、使い方の訓練も外国勢によってなされていた可能性があります。
武器商人も自然に湧いて出てきたのではなくて、外国政府と一体だったと思います。
まあ、そうじゃない、武器商人はビジネスだからニーズがあるところに自然と集まるという意見があるのでしょうけど。
南北戦争でアメリカは大変なことになっていたので、日本に乗り込むことはしませんでしたが、中国はアヘン戦争でイギリスに侵略されていました。
結果的に、ペリーが来航したことがきっかけで、列強が日本にターゲットを絞り、日本が戦乱に巻き込まれたといえるのではないでしょうか。
素人意見でごめんなさい。


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