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エチュード 谷間の人々9.

浦野はリュックからメガネケースのような表面が擦れてしまった容器を取り出し、中から何本かの水晶の柱状を手のひらで転がし陽光にかざした。焚き火の炎に炙るようにし、青い立ち昇る煙の中で、ちょうど向かいの山が映る角度で静止させた。蟋蟀の鳴き声が、影の無いまったき秋の盛んな午後を 呼び戻したような感じがした。その瞬間、視野のすべての山々が、なだらかで良く手入れされた庭のように見えた。太陽の太い柱が小暗い山影地に差し込んで、黒いぶどう酒を醸造しているようなイメージが浮かんだ。牧神の気配が吹き付けるように感じられた。浦野は表紙やページが手油でくすんだ文庫大の本を開き、詩か散文かわからないものを小声で朗読し始めた。私は遠景を見るともなく見ていた。                        はるか彼方の山並みの一角、群生する竹やぶが風にエメラルド色の葉裏を一斉にひるがえして、そよぎ始めた。渓谷の反対側の杉山の斜面を吹きおろして来た風に何万という枯れ葉が舞い上がり、谷の空を埋めて渡ってゆく。徐々に風のような何かが川を越え、平地を横切り、私と浦野のいる山の樹木も草も騒ぎ始めた。何かが山脈のあちこちから走り込んできて、あっという間に山あいの空間を占めた。大気の固まりが谷を渡る枯れ葉の大群の中に暴れだしたようだった。異様な気配が突然、私の胸にアドレナリンを分泌させ、ぞっとするような寒気がおこった。直後に、何もない虚空から、巨大な容量を持つ何かが私を見ているような畏怖がおきた。陽光と風の中に何かがいる。不快や不安、憂いが吹き飛ばされ風の生命力が私と浦野の周囲にみなぎり、結界をはった。直感的にそれは人間の規範、感情限界、容量を越えた圧倒的なもので、正邪、善悪、論理、倫理を越えた、野性の荒々しい、激しい、気が狂うほど清らかなものだと、感じた。                                  しずかに、手のひらで受ける清水ほどの冷感が、さざなみのように、眉間に流れいってくる。にわかに地名とか日時の感覚が遠ざかり、谷間の遠景の、陽光と風にたわむ樹の枝に振動が見えた。今が永遠なのだと。

(画像は"森PEACE  OF  FOREST"小林廉宜。世界文化社より。)

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