閑話休題 文章作法についてのtips(再録)

風景画杯の講評をしていると、必然、文章作法とかその辺のことに踏み込んで考えなくてはならず、これまで自分の書いたものとかもちらほら目に入ってくるのでサルベージ。2年前くらいに書いたものの再録です。

>>>

よくwebで目にするのは、テクニック的なハウツーと、心の持ちよう的なスタンス論に二極化しているイメージ。
そういう記事を書いてる人が、とにかく書く人を増やしての裾野を広げようとしているのか、書かれるものの質をあげていきたいのか、で分かれてるのかなあ、などと思います。
僕のスタンスは割と鮮明で、やる気のサポートはしてあげられないけれど、自分で添削(推敲)するやり方くらいは教えてあげられるかなあ、という立ち位置です。そもそも人に教えられるような偉いほうではないので、こうやって隅っこから見つけた人だけ読んでくれい、というスタンス。

人によってはガチで冷たい人に映ったろうなあ、と思います。
水に沈めば浮こうともがくように、書きたいことがあれば勝手に書くでしょうよ、という、後は野となれ山となれ派の人です。そりゃ群生に向かないわ。

1番、声を大にして言いたいのは、慣れないうちは書き言葉と話し言葉を区別しない、という鉄則です。
話し言葉で漢字変換して喋っていないものは、ひらがなで書く、ということです。
よくある「おもう/思う/想う/惟う」の使い分けなんかがそれにあたります。よほどそれが必要な文脈でないと「想う」の表記が出てくるだけで悪い顔になる僕ですが、ふだん使わない言葉と使う言葉が混在すると、一般には読みにくい文章になります。

叙情と叙述を切り分けて考えられればいいのだけど、ふだん触れる文章を無視するってのはできない話なんですよねえ。
基本的には、読んで欲しい欲求と、書きたい欲求は、表裏一体だけど相関関係はなるべく切り離すべきだと考えています。
書きたいことを書くべきだし、読んでもらうために工夫するのはいいことなのだけれど、書く内容自体を変えてしまうのは違うと思います。
SEO対策はまさに、読まれるために特化して、読まれるための、消費されるための技術で、それはそれで大事なのだけど作法とはまた違うかなと思います。

二つ目、金言なのですが、「文章は修飾語から腐ってゆくことを忘れるな」です。
金言に従って、腐りやすく言い直すと「凡庸な文章の、許し難く度し難く堪え難い腐敗は、陳腐で手垢にまみれた修飾語を被せることにより、あらかじめ約束されて始まる」です。
ま、余計な形容詞とかをつけなくてもいいものは心を打つよね、という話。
まったく修飾語がないってのも問題だけど、どうしてもそれがないとダメなの?ってのは覚えておいたほうがいいと思う。

三つ目は、言い訳かどうかを吟味せよ、です。
書きたいシーンだけはあるのだけど…というような話を聞くことがよくあったのですが、その度に「じゃあそこだけ書いて短編にしちゃえばいいじゃん」と返答していました。
普通に考えて冷たい返事ですが、案外それでよかったんじゃないかなあとも思います。
書きたいシーンだけ書いて発表しちまえばいいんです。前後の余韻が、とか、盛り上がるまでの構成が、とか、そんなことを気にしても仕方ないです。出し惜しみして、クライマックスのシーンまでの助走でしかない文章なんて誰も読みたくはありませんし書きたくもないです。
よく、クライマックス直前のシーンを冒頭に持ってくる小説を見ますが、これはこの作法に則ってやったのかなあとも思います。書く順と物語の構成が同じ。読みながら書くスタイル。
何かが、書き出す時の足枷になっているのであれば、それを壊してしまえばいいのだと思います。問題を取り除いたら新しい問題が生まれた、という場合はもう書かない言い訳を無意識に探している状態でしかないので、力技で無視するか、素直に書くのを止めるしかないかなあと思います。

断っておくと、僕は常に「書かないで済むなら書かないでいいじゃん」の人です。
やりたいからやる、が根底にないと何もうまくはいかないと思います。
自分が悩んでいて動けないのか、動きたくなくて動かないのか、判別しないと混同しちゃって泥沼にはまる気がします。やりたくないなら休む。無理にやらない。
行儀としてはそんなもんかなあ。
意味がわからないまま使っている言葉、自分のものになっていない言葉を言い換えて、自分の声に戻し、ついでに腐りそうな修飾語を削る。
それだけでぐっと読みやすくなるので、あとは好きにやればいいと思うですよ。
           ***
最近、再びよく見るようになったのは、「それ小説じゃなきゃダメなの?」という問題。
悲しいかな、絵が思うように描けないので小説で表現する、という層は一定数存在して、その辺の見分け方。
ビジュアルを克明に、誤解のないように細かく書いてゆく、というのは、好みの話かもしれませんが小説には向かない気がします。
一番、小説と漫画と映像のそれぞれの表現の中で、同じものを描いても違うものになるのが、「沈黙」です。自分の書きたい沈黙が、小説に合った沈黙なのか、漫画で描くべき沈黙なのか、映像に残すべき沈黙なのか、それを意識するだけでだいぶ表現の幅が広がるように思います。

できないこと、苦手なことを知ることは洗練の第一歩。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?