花と緑の世界

 やはり、ナーサリーに忍び込んだ母がいたのだ。その痕跡を辿りながら、わたしは暗澹たる気持ちになった。いつか、こういうことが起きる予感はしていた。

 わたしたちは「門番」と呼ばれているし、自分たちのことをそう呼んでもいる。わたしだけではない。この土地に残ったものはすべて、ひとしく、一人の例外もなく門番であり、同時にそれぞれが門でもある。
 わたしたちは、再収納をおそれながら暮らすひとりひとりであり、同時に再収納のための門を額に宿している。平時のそれはきらきらと暗緑色に光り、とても美しい。

 なぜ、誰が、どのようにして門に選ばれるのか、正確なところは誰も知らない。これまでに体験したこと、そしていつから伝わっているのかわからない言い伝えから、それが恐ろしいほど正確に「ランダム」に起きるということと、残酷なまでに「定期的」におきるということをわたしたちは知っている。

 どの門が開くのかは、強い乱数性に支配されている。身内の誰かがひとつ前の門を開いたなら、次の門は別の家族に開かれることが「多い」。男性の門だったなら、次は女性であることが「多い」。
 ただ、規則性はない。法則性を破るというのが唯一の規則だ。
 規則を見つけて、次の再収納を予測できるとわたしたちが思うと、ほとんどの場合、門はそれを破って開く。門が開くと、周囲にあるものは再収納される。そこにあった文明はすべてが失われて、わたしたちだったものの形をした植物だけが残る。規模は、門の大きさに比例する。植物の種類に法則性はない。実をつけるりんごの木になる門もあれば、低木にかわる門もある。
 わたしたちは門番であり門でもあるが、こんな生活の中でも、細々と愛し合い、めいめいに仕事を営み、日々を過ごして子を為した。

 まじない師たちは結界のことを語る。彼女たちの語ることを本当の意味で理解しているひとは居ないかもしれない。彼女らは「完全な乱雑さ」を破れるものはいないという。椅子を三つ重ねる程度のことですら、なんらかの法則が生まれてしまうという。
 もしも、完全に何のルールも持たない形で、いくつも椅子を積み重ねて壁をつくることができれば、その壁は何ものの侵入も許さないだろうという。
 彼女たちは今日も、完全な乱雑さを見つけるために椅子を積んでいる。

 ナーサリーの場所は「完全な乱雑さ」からもっとも近い場所を選ぶのだという。わたしたちは、定期的にナーサリーの場所をまじない師たちの決めた場所に移していた。

 子供たちを、再収納に巻き込みたくはない。
 全ての母の望みは一致していた。わたしたちはその全てが門だ。開く門から逃れる術はないが、それが開く時は予測ができる。
 つまり、その瞬間、全ての大人たちが子供から遠くに居るようにすれば、子たちは再収納から守られるのだ。
 わたしたちは、まじない師たちがいう「最も安全な場所」に子供たちを集めて育てることを選んだ。子供の門は小さい。子供の門が開くことは皆無というわけではないが、子供の門では再収納できるのもせいぜいが大人の両手くらいの範囲だ。子供達の間の距離さえあけておけば、再収納は最小限で済む。

 ナーサリーには清潔なハンモックが、安全な距離をとって並べられている。天幕の中央には明かりとりの窓がある。がちょうの羽をたっぷりつかったクッションが、見守りの椅子には乗せてある。

 わたしたちは可能な限り、再収納の日をばらばらに過ごすことを選んだ。愛するものたちを巻き込まないように。もしも開いてしまったとしても、一人でその時を迎えられるように。

 門がどこかで開いたこと自体に間違いはなかった。わたしたちは記録のためにお互いの所在を確かめ合う。家々は無事を知らせるためにかまどに火を入れる。立ち昇る細い煙が、それぞれの無事を知らせる。つよい風が崖の間を通る、かすれた悲鳴のような音が聞こえる。いやな音ではない。少しだけ物悲しい気持ちになるが、何の感慨もない音よりはましだ。

 いつもわたしたちは、またひとり減ってしまったことを感じながら、それでもお互いの無事を確かめ合う前にお茶を淹れた。谷に住み着いた門番たちは、十分多いとは言えないが、滅ぶにはまだ遠い。嫌な予感がして、わたしは湯を沸かす前にナーサリーへ向かった。

 門の先はどこなのか。
 正確に答えられるものはきっとだれも居ない。ただ、わたしたちは、たぶんちらちらと鍵穴を通して覗き見をしているのだろう。門の先はどこなのか、知っているのだ。
 門は「どこか、外に繋がっている』のではない。逆で、「内がひろがっている」のだ。わたしたちは肉体の中に、さらに「内」を宿している。相対的に「外」というのは、わたしたちが、へばりつくように暮らしているこの崖の下の集落の方なのだ。

 ナーサリーに辿り着くまで逃れる低木の茂みに、幾つもの跡を見る。開きかけた門の痕跡、引っかかって取れてしまったコサージュ。見覚えがあった。ナヒリだ。子を産んで、まだ半年も経っていない。

 わたしはまるで彼女になったような気持ちで、彼女と同じ道を辿った。木々の向こうに、ナーサリーはまだ見えない。子守の小屋もまだ遠い。開門の時間、開門するであろう時間には子守も崖から離れたはずだ。前世紀の飛行機械の残骸の横を潜り抜ける。
 相当急いでいたのだろう。苔をむしった跡が見えた。

 昨日、ナーサリーにいた子供たちは6人。4歳のススムが最も年上のはずだ。チャルムの二番目の子。一番小さいのはナヒリの子だ。イヒト、とナヒリは名付けた。よく泣く子で、その元気で大きな声に母たちは目を細めた。

 ナーサリーのテントは、まるで途中で抉り取られたように千切れ、バタバタとはためいていた。子供達の泣き声は聞こえなかった。森の声だけが聞こえた。わたしはもはや駆け寄らなかった。何が起きたかは明白だった。門が、ここで開いたのだ。

 ゆっくりと近づくと、ナーサリーの残骸からススムがわたしを呼んだ。少しだけびっくりしたが、再収納に巻き込まれなかった子供がいるというのは、手放しで喜ぶべきことだった。

 ススムを抱きしめて、こわかったねと頭を撫でると彼は答えずにわたしにしがみついた。再収納の痕跡に目を向ける。ナーサリーの入口は、まるで元々から草むらだったようだ。
 寄せ集めの建材が消失している断面は、きれいに分解されている。まるで組みかけで中断したみたいに、再収納の届かなかった柱、敷物、倒れた半分の椅子。ハンモックを吊るしていた留金が、地面に転がっている。

 中心には、薔薇の木が立っていた。
 ナヒリと同じ背丈の薔薇。こんもりと、膨らんで絡んだ蔦は、赤子を抱いているように見えた。わたしは理解した。ナヒリが開いたのではない。ナヒリの子、イヒトの門が開いたのだ。ナヒリは最後、子を抱いたのだろう。ふたりの印か、薔薇は二輪、頬を寄せるように咲いていた。

 ススムが、立ち尽くすわたしの服の裾を引いた。

 わたしは曖昧に返事をして、のろのろとお茶の準備に移る。他の子供たちはまだ眠っている。でも、強い風でもうすぐ起きるだろう。まだ小さい子供たちには乳を与えなければならない。

 わたしは空を見た。
 船の残骸が、雲に混じってゆっくり流れている。再収納しなければならないものは、まだまだ多いのだろう。わたしたちの世界は今日も続いてゆく。

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