天才性について

自分のことをさほど賢いとは思っていない。単に蓄積したものが剥落していないということじゃないかと感じている。サンプルケースを集めれば集めるほど機能する僕のようなタイプは情報が洪水のような今の時代に対して、単純に相性がいい。
僕の場合、体感として感じているのは「蓄積したものが剥落していない」というただそれだけだ。覚えておく能力、検索する能力、組み合わせる能力、関係ないものを関係ないと判断する力を力というならそうなのだろうけど、誰にでもできることの精度を高められるかどうか、というのはあんまりIQとは関係ないんじゃないかって思う。
これがIQの賜物かと問われると、そこは審議が要るなってすごく思う。脳内でやっていることはたぶんディープラーニングの系統に近い。ではコンピュータはIQが高いのか。もし高いと言えたとしても、それはそうなるようにプログラムを組んだ人間の凄さではないのか。
ともあれ凄かった結果を出した例を列記するというのはあんまりベンチマークテストとは言えないんではないかと思う。本当は、例挙できないレベルで実現しているものこそが地力であり、その人の「すごいところ」というのは原理的には「主観では判断できない」というのが正しいのではないかと思う。指摘されて初めて認識するか、他人の遍在する平均的な劣り方を観測した結果「周りが劣っているのではなく、おれが優れているのだ」と認識するのではないだろうか。
そう考えると、ほんとうに知能に優れたもののうち幾らかは、他人を見下す性をその出自として抱えているとも言える。正確には見下すのではなく、ただ劣っているものを劣っていると認識するだけではあるが、いずれにせよ原理的なものだ。
己の長所を相対的に認識しようとすると、どうしてもそうなる。


intelligence quotient 


それは指数である以上、相対的にしか語り得ない。
天才性というのは、そういうものとは別個のラインに在ると感じる。
もっとも問われると答えたくなるというのは人のサガであるよな、とは思う。特に成功体験こそ語りたい欲を刺激するが、過ぎたものは過ぎただけのものである。「まだないもの」に対して己の天才性を確信できるものこそ天才性ではないかなと思う。
たぶん、僕は「ポテンシャルの汎用性」に近いものを天才性だと感じてるんだろうな。まだ見ぬものを嘲笑してはならないなと思う。そして、見えているもので相対的な評価を受けて安堵や劣等感を抱くことも。

ちなみに自覚的には自分のことをふつうに天才だとは思っているが、これは特定のスキルやら能力やらに論拠を取らない。
みんな僕のこと知ると僕のこと好きになっちゃうんだ、というのと同じ程度の確からしさの推論である。

「天才なら、一体何ができるの?」というつまらない問いを投げかけられた時は、機嫌がよければ「史上最大の愚問にも怒らずに返事すること」って答える。
天才というのは、まずは天賦の才と定義するしかない。わからんけど、何もせんでもできることが多かったらそれは天賦の才としか呼べないだろって思う。

自分のことを好きでいることと、それを自分以外の人間に伝播させてゆくこと。
小賢しい手段を使わなくてもそれが実現されるとしたら、それはもう暴力的な伝播といって良いじゃろと思う。

つまり、僕は天才性というものを一つの暴力性だと思っていて、それは実際に何人の人間を血祭りにあげたかを証拠に取らない。
存在するだけで人の心をへし折り、あるいはなにかを諦めさせること。
逆に奮い立たせ、朽ちてゆくものに新しい炎を点火すること。
いずれにせよ、自己申告の実績数を論拠に取るのは野暮だし、原理的には無理な話。

それはそれとして。
思うに、なんで天才を見たとき、即座にその天才性を検証してやろうという気持ちになるのか。
そうかそうかすごいねえ、という感想を持てない、ということはいったいどんな心の働きなのか、と時々考える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?