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医師の中で小児科医が一番、ワクチンの効果を知っている

ドイツ人の医師のモーニッケは、1848年から1851年まで、長崎の出島のオランダ商館の医師として勤務しました。

来日した際に、牛痘苗を持参して、通詞の子どもに接種しましたが、うまくいきませんでした。
モーニッケは諦めず、新しい牛痘苗が届くのを待ちました。

1849年7月に、オランダ船が持ってきた牛痘苗を用いて、佐賀藩の藩医だった楢林宗健の子どもに接種しました。
今度はうまくいきました。

佐賀藩の藩主鍋島直正は、藩医の宗健に自分の子どもに種痘を行わせました。
藩主が真っ先にお世継ぎの子どもに種痘を行ったことで、「種痘をすると牛になる」という悪評がなくなり、人々は安心して種痘を受けるようになりました。

トップの役割は重要です。

モーニッケは、半年間で二〇〇人以上の長崎の子どもに種痘を行ったという記録が残っています。
こども好きだったと思います。

また、モーニッケは、種痘術を、長崎滞在の諸藩の医師や町医者に広く伝授します。

モーニッケの下では、江戸の薬商で奉公していた若山健海という若者が学んでいました
その後、日向の国の美々津に移って、耳川を遡った坪谷村で開業します。

健海は、宮崎ではじめて種痘を行いました。
この健海の孫が、若山牧水です。
牧水は子ども好きで、次の歌を残しています。

若竹のびゆくごとく子ども等よ 真直ぐにのばせ身をたましいを

牧水の父も医師でしたが、牧水は家業を継がず、歌人となりました。
もし、牧水が医師になったとしたら小児科医のような気がします。

漫画家の手塚治虫さんの曾祖父は、江戸に種痘所を建設するために資金提供した蘭学医のひとりです。
医師免許を持った大森一樹監督の映画「ヒポクラテスたち」で、手塚治虫さんは小児科の教授の役で登場しています。

臨床実習中に小児科を回ってきた医学生が、赤ちゃんを診察中におしっこのシャワーを浴びました。
手塚教授は、赤ちゃんのおしっこにはきたなくないので、大丈夫と笑って学生たちに笑って説明するシーンが素敵でした。

手塚治虫さんもまた子どもが好きで、死ぬまで子どもが喜ぶ漫画やアニメを制作しました。

結論から言えば、種痘に関係した人は、子ども好きだと思います。
医師の中でも、小児科医が一番ワクチンの威力を知っています

日向市駅の若山牧水像

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