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「水と安全はただ」だとする日本人の思想は、公衆衛生的には危険である

およそ二五〇〇年前の中国の古典「孫子の兵法」には、水の記載があります。
 
 夫れ兵の形は水に象る。
 兵の形は実を避けて虚を撃つ。
 兵は敵に因りて勝を制す。
 故に兵に常勢なく、常形なし。

(そもそも軍の形は水の形のようなものである。軍の形は敵の備えをした実の所を避けてすきのある虚の所を攻撃するのである。軍は敵情のままに従って勝利を決する。だから軍には決まった勢いというものがなく、決まった形というものもない。)
 
感染症は、孫子のいう「水の無形の戦法」でわれわれ人類に戦いをしかけているように思います。
兵を菌に、敵を人に読み替えるとより明確になります。
 
 夫れ菌の形は水に象る。
 菌の形は実を避けて虚を撃つ。
 菌は人に因りて勝を制す。
 故に菌に常勢なく、常形なし。

 
菌(病原体)が増殖するためには水が必要です。
このため全ての水は、病原体に汚染される可能性があります。
水源となる表層水は、動物やヒトの糞便により汚染される可能性が高くなります。
そのため大腸菌は汚染の指標となっており、水道水の水質の基準に使われています。
大腸菌の基準は「検出されないこと」です。
たとえ、環境省が指定した名水百選の湧き水であっても、弘法大師の霊水であっても、大腸菌が検出されたら飲用禁止です。
 
水に潜む病原体は、飲料水や食品を通じてヒトに侵入します。
代表的な水系感染症に、赤痢菌、腸管出血性大腸菌O157があります。
水の中の病原体が、直接皮膚から浸入するものもあります。レプトスピラがそうです。
エアロゾルとなって、ヒトの呼吸器から入るものもあります。レジオネラ菌がその代表でしょう。

水の中の病原体は煮沸すると死滅しますが、凍らせると生き残ります。発展途上国では、氷が汚染されていることがよくあります。
海水中の腸炎ビブリオは、海産魚介類からヒトに侵入します。
ヒトの糞便が下水となって海に流れ込むと、A型肝炎ウイルス、E型肝炎ウイルス、ノロウイルスが貝類に蓄積し、その貝を生で食すると感染することがあります。

水道水は塩素で消毒されているので安心だと油断すると、塩素に強いクリプトスポリジウムのような原虫が現れます。
水たまりの多いところでは、ボウフラが沸き、さまざまな病原体を搭載できる蚊が発生します。
水が入手が困難なところでは、トラコーマや疥癬が発生しやすくなります。
「水と安全はただ」と思っている日本人は多いのですが、公衆衛生的には最も危険な思想です。

水は無形です。
湯になれば、皮膚に火傷を起こします。
高温の蒸気では、気道熱傷となります。
気道を塞げば、溺死します。
冷たい雨にうたれると低体温症になります。
雪や氷に長い時間触れると凍傷になります。
水の補給が途絶えると脱水症となります。
水は化学物質も溶かします。
水銀、ヒ素、シアン、マンガンなどさまざまなものがあります。
飲み水は定期的に検査をしないと危険です。

清潔な水を確保することは、公衆衛生の基本ですが、これを維持し続けるためにはお金がかかります。
水と安全こそ、お金をかけて守らなければならないのです。
清潔な水が供給できないところでは、あらゆる病気が蔓延します。
水を制する者が、公衆衛生を制すのです。

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