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人は死んでしまえば「十万空」、敵も味方もない世界に行く

宮崎県の川南町には「宗麟塚」があります。

1578年11月12日に、大友宗麟と島津義久が激突した耳川の合戦がありました。
この合戦は「九州の関ヶ原」とも言われ、両軍に多くの死者がでました。

大友軍約四千、島津軍約三千が戦死したと言われています。
戦場となった場所では、今も人骨が出ることがあるそうです。

島津側の将で高城城主の山田有信が、七回忌において敵味方の区別なく供養するために建てました。
宗麟塚に刻まれている漢詩には、山田有信の想いが記されています。

本来無東西 何処有南北
迷故三界城 悟故十方空


人々はこちらが東、こちらが西と言っているが、これは古い時代からあったものではなく、人間が方向を知るために、仮に定めたものに過ぎない。

東西がそうであるから、南と北も同様に、人間が仮に定めたことに過ぎず、本来あるはずはない。

しかしこのようなことに迷うから東があり西があり、南は薩摩、北は豊後として敵対するようになるのである。

悟れば南も北もなくなり、みな日本人となる。
すなわち十方空である。

人は死んでしまえば、十方空、即ち敵も味方もない世界に行く

宗麟塚


大友宗麟は、「無鹿」という理想郷を創ろうとしました。
ラテン語で音楽を意味する「ムジカ」から取ったと言われています。

キリスト教作家の遠藤周作さんが、取材のために地名の残る延岡市無鹿まで来たことがあります。
その前日の夜は、宮崎市に泊まって料亭「杉の子」で夕食をとりました。

増水していた耳川を、敗走する大友軍の兵士は渡ることができずに、おおぜいが溺死したと伝えられています。

耳川は、私の故郷の椎葉村に源流があり、美々津にそそいでいます。
耳川の合戦から300年後の西南戦争では、耳川を挟んで北に薩摩軍、南に政府軍が対峙しました。

いずれも北が負けています。
耳川は「敗北の川」です。

子供のころから何度も耳川の河口にある鉄橋を渡りましたが、そのたびに暗い深緑の川の水に薄気味悪い霊気を感じていました。
後に、こうした歴史があったことを知って納得したことを覚えています。

耳川の河口の美々津から神武天皇がお船出をしたことを記念して「日本海軍発祥の地」の碑があります。
巨大な碑で、署名は海軍大将・内閣総理大臣米内光政です。

船の埴輪があり、傍には旭日旗がはためいています。
ご安心ください。幽霊は出ませんので(知らんけど)。

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